「意味のあるもの」に振り回される人たち

ところが、いまの世の中は意味のあるものしか価値がないと思っている。すべてが意味に直結する社会を情報化社会と言います。意味のないものを全部なくした一つの象徴が、会社の無機質な会議室です。あそこには意味のあるものしかありません。机と椅子とホワイトボードで、せいぜい花が飾ってある程度です。それと対照的なのが、山とか森です。自然の中にあるのは、都市文化にとっては意味のない無駄なものばかりですから。

会議室のような場所ばかりで過ごしていたら、感受性が鈍ります。いまの学校の子どもを見たらわかる。無意味なものは置かず、教室が一つのオフィスのようになっています。マンションの自宅から学校まで往復しているだけなら、完全に世界が閉じられる。感覚が劣化するのも当たり前です。

誰もいない学校の教室
写真=iStock.com/Yoshitaka Naoi
※写真はイメージです

人間なんかいなくたって、自然は成り立っています。でも都会は人間しか関わらない生活をつくっている。他のものは余分だからという理由で全部を排除してしまう。

脳も世の中と同じです。つまり、脳の大部分は無意識という「意味のない部分」が占めていて、意識なんて氷山の一角です。

ところがほとんどの人は、自分の意識が脳や身体のすべてを支配していると思っています。意識は意味を求めたがる。それでわかるとか、わからないと言って悩んでいる。

「自分で自分をコントロールできる」は驕り

そもそも意識がすべてをコントロールできると考えるのが間違いです。朝、目が覚めるのもひとりでに覚めるのであって、意識的に覚めてるわけじゃないでしょう。

コップで水を飲むときも、意識は飲みたいから飲んだと思っている。脳が「こうしよう」と思ってから、その後に行動すると考えている人が多いですけれど、逆です。脳を測ってみると、まず水を飲むほうにはっきりと動き出して、そのコンマ何秒後かに「水を飲もう」という意識が起きています。意識は脳がその方向に向かって動いた後から遅れて出てくる。だから、科学的に言っても、人は自分の意図で何かをしているかというと、必ずしもそうじゃありません。

そういうことを無視して、わかるとかわからないとか言っても、それは意識の一番上澄みの部分だけの話をしているにすぎません。その下には膨大な無意識や無意味が隠れている。無意識や無意味なんて、お互いにわかるはずがない。上澄みだけを見て意味を求めるから、「通じるはずだ」と思ってしまっているわけです。

だから私は「人間はもっと謙虚になれ」といつも言います。自分の行動は、すべて自分でコントロールできていると思っている。そんなものはおごりです。