※本稿は、養老孟司『ものがわかるということ』(祥伝社)の一部を再編集したものです。
「他人の全部をわかろう」とするから辛くなる
人間関係の悩みについてよく聞きます。他人が自分を理解してくれない。あるいは他人のことがよくわからない。それで多くの人が悩んでいるようです。
なぜ、相手のことを理解しなければいけないのか。理解できなくても、衝突しなければいいだけです。相手の言うことを一から十まで理解しなくたって、ぶつかることは避けられます。ポイントは、相手が出しているサインのようなものを察知することです。「いまは話しかけないほうがいいな」とか「ここで近寄るのはまずいな」とか、地雷さえ踏まなければ衝突しなくて済む。
本当に他人をわかろうなんて思ったら、大変なことになります。むしろわからないままのほうが折り合いをつけやすい。別にこちらが全部わからないからといって、相手が自分を憎むわけじゃありません。人はそんなにおかしなことはしない。話している相手が「俺に対する理解が足りない!」と叫んで、殴りかかかってくることはありません。
全部をわかろうとするから悩んでしまうのであって、大半はわからなくても当然と思えば楽になります。
ネコが苦手な人にネコを語っても伝わらない
相手のことがわからないのは、なにもあなたの理解力が足りないからじゃありません。たいていの場合、前提が違うからです。前提が違う人にいくら言葉を投げても、相手に刺さるはずがない。前提の違う話をされると、人は当惑します。
ネコが苦手な人に、ネコの面白さを延々と語ってもまったく伝わらない。こんなに一生懸命話しているのに、なぜわかってくれないのか。ネコに関する前提が根本的に違うんだから当たり前です。
「理解する」とか「わかる」と言うと、みんな「意味」と結びつけて考えがちです。相手が不可解なことを言うと、「これはどういう意味だろう」と勘ぐり出す。そうやって人はみんな意味を求めるでしょう。ところが世の中を見れば、実は意味のないもののほうが大きな割合を占めています。部屋の中に変な虫がいたら、それは人にとっては意味がない存在ですが、いるんだから仕方ない。山には石がゴロゴロしています。意味などなくても、自然には石があります。