「与えられた問題を解く」のが、あなたの人生か?
前置きがずいぶん長くなってしまいましたが、ここから本論。本書からは、研究を進める上で、大事な姿勢と方法を学ぶことができました。そのことを3点、述べておきます。
その第1は、本書は、「自分が変わり相手が変わる」という自身と対象とのダイナミックな関係を記述しようとする試みだという点です。著者の菅原氏は、先輩研究者の田中二郎氏に導かれてこの種の研究に取り組み始めます。その最初のところから、話が始まります。著者が大学院生であった時に田中氏に引率されて当地へ行くのですが、当の田中氏が突然同行できない事情になります。そうした事情を序章で述べるのですが、そこから「本書は、対象と距離を置いて客観的な観察をベースとしたモノグラムではない」ということがわかってきます。
もちろん、客観的な分析が軽視されているわけではありません(以下に述べるように、現実に、彼は、定量的な観察からスタートします)。だがそれ以上に、自身がグウィの社会に参画することで、研究者としてあるいは一人の人間として、対象についての理解がどのように深まっていくのかにも一つの焦点が置かれています。
人間と自然との間のダイナミックな相互作用を扱うところに文化人類学の基本姿勢があります。これは、レヴィ=ストロースの話からも、わかると思います。彼らはほぼ共通して、デカルト的心身二元論(注2)を超えようとする生態学的な考え方を持っています。
(注2)「物心二元論」とも。フランスの哲学者デカルトが提唱。物体と精神は、それぞれ独立して実在するものであるという考え方。
その考え方がまさに、本書においては記述の方法として実践されています。グウィと自然との間の生態学的現実を知るべく、自身とグウィとの生態学的関係に焦点を置きながらアプローチするというわけです。筆者は、次のように言います。
「グウィの社会のなかで透明人間でありつづけることはできない。感情を揺り動かされながら、かれらとのかかわりあいを生きなければ、何ひとつ『わかる』ことなどできはしないのだ。そのとき、もはや、私は観察者ではない」と(本書46頁)。
第2に、研究するとはいったいどういうことか、いかにして研究という仕事が立ち上がるのかということを学ぶことができました。「内外のサーベイ論文やレビュー論文を読んで、研究テーマを見つけるのが研究だ」と思い込んでいる研究者には信じられない話かもしれません。筆者は、「研究するといっても、いったい何を研究するのか」、「観察するといっても、いったい何を観察するのか」という研究の最初の戸惑いを序章において丁寧に書きこんでいます。
筆者は、まず精密な観察からスタートします。しかし、「目に見えるあらゆる活動を記述する」などという作業が徒労にすぎないことがすぐにわかってきます。逐一観察するといっても、何を、どこまで逐一観察すればよいのか。そもそもそうした観察に意味があるのか?
それを、こう書いています。
「私は、集まりのなかにすわりこみノートを広げ目を光らせている。一人の少女が立ちあがる。私は書きつける。『10:45 オレー立つ』。彼女を目で追っていると、彼女はちょっと離れた自分の小屋に行き、草葺きの屋根に突き刺してある木製のスプーンをもってもどってくるのだ。私は書く、『10:46 オレー、スプーンをもってもどってくる』。こんな記述に意味があるのだろうか?」と(本書20頁)。
確かに、意味があるのだろうかと思わないのではありません(笑)。
私が弁解する必要もないのですが、筆者は、まだ院生で初めての実地調査だったこと。また、筆者がそれまで取り組んでいたサル学では、こうした詳細な記述の積み重ねこそが核となる調査手法であったこと。こうした事情もあったのです(サル学と人類学とは、似ているようで方法も違ってくる!)。
さて、「研究調査努力に値することが何か、わからない」。「いったい何がわかったらわかったことになるのかつかめない」。「自分は何のために当地にやって来て、何を観察し研究しようとするのか見えない」。こうした研究者として根源的な戸惑いのなかに、筆者は置かれることになります。
口はばったい言い方ですが、私は、こうした根源的な研究の戸惑いを経験した研究者は強いと思います。研究者は、こうした戸惑いのなかに一度は身を置かないといけないと思います。すでに与えられた問題を解くという「あなた任せの研究スタイル」ではありません。自ら人生を賭けて解くべき問題を見つける作業からスタートすることが肝心なのでしょう。それが、研究への継続する関心を数十年にわたる研究全人生を通じて持ち続けることを可能にするのではないでしょうか。
第3。研究を定量データの収集でスタートさせたことです。どこからどう迫ればよいか悩んだ筆者は、現地の人が、どれだけの距離をとって対話するかを測ることから調査をスタートさせました。
社会科学の研究者は、往々にして、定量調査を、仮説検証の手法として理解します。定性的研究で掴んだ仮説を大量サンプルで検証するというスタイルは社会科学の典型です。いわば、定量研究は、それをやって終わるという研究の締めの役割を担います。しかし、社会を深く理解するにおいては、定量は最初の手掛かりとしての役目でしかありません。定量研究で社会理解の手掛かりをつかみ、そして彼らの間で交わされる含み笑いや目配せといった微妙な動作の意味がわかるレベルに達して初めて、その社会の一員と同等の社会の深い理解にたどり着くものです。筆者の研究における定量調査の位置づけは、その意味で、決め手ではなく、理解の手がかりとして有用なツールと考えるべきことを示唆しています。