その状況を、地元紙は次のように伝えている。

「時山を木より下ろして見れば、頭は半分引き裂かれ、耳も目も半分無く、宮本は倒木の下に潜り込んでいて、かれこれするうちに40余名の部落民が行き、4人を持ち帰った時に医師も来たが、なにぶんの重傷で、平は10日午後6時半頃死亡し、時山は11日未明死亡し、宮本は余病発しなければ、一命は助かるであろうと」(『北海タイムス』大正元年11月17日)

4名もの犠牲者を出したこの朝日村事件は、「苫前三毛別事件」(死者7名。一説に8名)、「沼田幌新事件」(死者4名)、「札幌丘珠事件」(死者4名)に匹敵する大惨事である。

しかし資料が乏しいこともあって、現在ではほとんど知られていない。

第2の事件「愛別村事件」

この事件の翌年、約20キロ南の愛別村で、親子3人が自宅前でヒグマに喰い殺されるという陰惨いんさんな事件が発生した。

詳細は『アイペップト 第2集』(愛別町郷土史研究会)の、安西光義の回顧談に収録されているが、当時の新聞記事なども照会しつつ、事件を追ってみよう。

福島県信夫郡大笹生村から移住した熊澤豊次郎(36、一説に豊四郎)一家は、妻静江(31、同志げの)と11歳の女子、4歳(同5歳)と1歳の男子の5人家族であった。

大正2年9月27日、豊次郎は、長男一二三を背に提灯を提げて帰途についた。

自宅の手前にさしかかったとき、突然、蕎麦畑から一頭の大熊が現れ、背中におぶっている長男一二三に噛みついた。熊は一二三の脳天を割り、腕をくわえ振り回して、一二三の左腕を肩関節から千切り取った。

サケをくわえながら歩く熊
写真=iStock.com/Gerald Corsi
脳天を割り、腕をくわえ振り回して……(※写真はイメージです)

熊は豊次郎にも飛びかかった。豊次郎は腕力に自信があったので、「おのれッ」と叫び熊に組みついた。格闘となったが、もとより熊の力には及ぶべくもない。

豊次郎は家にいる妻の静江に向かって、「火を持ってきてくれ」と声の限り叫んだ。