「ミニマリズム」は消費を縮小させ、貧困が増大する

「大量の服を消費している経済評論家が何を言う!」と思うかもしれませんが、実は私も1年間、服の利用状況を記録し分析した後では、服はほとんど買わなくなりました。

少なくともこれからの10年間、今持っている服だけでほとんど暮らしていけますし、これから買うのは本当に気に入った服を10着だけでいいと思うようになりました。

むしろ因果関係を考えると今後問題になるのは、こういうことではないかと思います。

持続可能な社会を目指すうえで日本人はこれから先、老若男女問わずミニマリストを目指す人が増えたほうがいい。ただそのようなトレンドは本質的には消費の縮小を意味します。結果的に因果関係としてはそのことによって若者の貧困が増大するかもしれない。それで良いのかという話です。

若い人はご存じないと思いますが、1970年代の日本では地方から東京に上京した若者の多くが風呂なしの賃貸物件で暮らしていました。風呂だけでなくクーラーはもちろん暖房もまともにはない部屋で一人暮らしをするのが普通でした。

そこから日本が経済的に豊かになって、若者も快適なワンルームマンションに住めるようになったのが平成の時代。それがさらに巡ってふたたび令和の時代に木造のアパート暮らしが若者の標準に戻ってしまうのかどうか。その点がこれから先、社会問題としての論点になるのではないでしょうか。

一人当たりGDPで劣った30年前のイタリア人の豊かさ

ちなみにそのような生活も必ずしも悪いとは言い切れません。30年ほど昔の議論で「イタリア人は貧しいのかそれとも幸せなのか」という議論がありました。イタリアは21世紀に入ってEUが発展するようになってから一人当たりGDPも3万5000ドルに増加しましたが、1990年当時は2万ドル前後と欧州の中でも比較的貧しい先進国でした。

ところが実際に当時イタリアに住んでいた日本人に言わせると、イタリア人は貧しくても日本人よりも人生が豊かだと言うのです。収入は少なくても休日は町に出て濃いコーヒーを味わい、ワインを飲みながら毎日イタリアンの食事を楽しみ、大勢でワイワイ騒ぎながら人生を語り、政治を語り、愛を語り、大声で歌い、そしてサッカーの試合を見てブラボーと叫ぶ。当時、GDPがはるかに高かった日本と比べてもイタリア人の生活の方が豊かではないかというのです。

その背景には2000年以上もの時間をかけて蓄積されてきたイタリアの社会インフラの豊かさがあったのだと思います。古いものではローマ時代からの石畳があり、築何百年の集合住宅にいまだに人が快適に住める。一人当たりGDPというフローの数字では貧しくとも、社会全体のストックを勘定にいれたらイタリアは豊かな国である。だから人々も豊かな気持ちで生活をしているのだというのが「イタリア人は幸せだ」という主張の論拠でした。