「正解がない」可能性が排除された世界

――どんな議論なんですか。

答えがない問題をわざわざ選んでディベートが始まるんですよ。

死刑制度はありかなしか。女性を軍人にすることは倫理上ありかなしか。中絶問題はどうか、進化論を否定する人に言論の自由はあるか、とか。

ハーバード大学入学時にキャンパス内にて撮影したポートレート。著書『よくひとりぼっちだった』の背表紙より。

日本だとすでに答えがあること速く正確にたどりつく練習ばかりしていました。たとえば受験だったら、この問題集、模擬試験とかって定型がありますよね。定型しか練習していない者は議論を通して考え抜く、ということができなかった。そういう谷底に放り込んで、自分の力で上がってこい、というのがハーバードの1年目1学期でした。

あともう1つ、これもちょっとついて行けなかったんだけど、ものすごい量の資料や書籍を読んだ上でないと、議論が組み立てられないように作られているんですね。結局日本では、正解と不正解がはっきりした問題を解くチャンピオンになる競争だけをしている。世の中の問題には正解・不正解が必ずあるとわけじゃないということを、実は最初から排除されていたんです。

「東大王」と「論破王」は表裏一体

――「議論」といえば、日本では「論破王」が人気ですね。

論破王の前に、「東大王」があると思います。2つは鏡の裏表ですね。

クイズの番組って、ほんとにトリビアとかの正解の早さ。知っているか、知らないかというゼロイチ判定。ボタンを人より早く押せるかとか。

間違った答えの中に次の正解の種があったかもしれないという出題の仕方じゃないんですよ。だから非常に非科学的なのね。視聴者も「東大生なのにそんなこともわからないのか」って、溜飲を下げたりする。

「家康の天下平定の年号言えないの? それでよく理工博士だな」なんて言って優越感を抱くようにテレビの番組が作られているんですよね。こうしたクイズ番組が、ゼロイチ判定を求める人たちを育てちゃった。

でもこの世の中、ゼロかイチか、答えがある問題ばかりじゃない。こうした現実が押し寄せてきて、でも、そういう人たちをすっきりさせられる答えをテレビも持っていない。そうなったときに出てきたのがネットの論破王だと思います。