ボジツァさんとアメラさんの団体は数年前、同じイベントに出る機会があった。だが、お互いに「あなたたちは嘘をついている」と非難し合い、とても協力し合える雰囲気ではなかったという。
営業を再開した「レイプ・ホテル」
紛争後、ボスニアは、ボスニア連邦とスルプスカ共和国に分かれた。だが、双方の間に「国境」があるわけではない。
ボスニアからスルプスカに車で入っても、「スルプスカ共和国」と書かれた看板があり、スルプスカの旗がはためいているだけだ。日本でいうと、東京都から千葉県や埼玉県に入るのと同じ感覚と言える。
だが人々の心には、「国境線」が引かれている。多くの人々は、多数の自民族が殺害された相手側の「国」に足を踏み入れようとしない。
「両国」では、学校で使われている教科書も違えば、テレビや新聞などが報じる内容も異なる。紛争についても、両国で異なる「事実」が当たり前のように流布している。
そのことを具体的に示す事例が、アメラさんの故郷ビシェグラードにあった。
街の中心部から車で5分。うっそうとした森の中に、古びたホテルが建っている。温泉を使ったプールが売り物の「ビリナ・ブラス」だ。このホテルは、ボシュニャク人から、通称「レイプ・ホテル」と呼ばれている。
200人の女性がレイプされ、殺された
セルビア兵がボシュニャク人の女性約200人をここに連れ込んで拘束し、ベッドや水の入っていないプールで性的暴行を加えた後、多くの女性を殺害したとされる。紛争の戦犯を裁く旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY、本部オランダ・ハーグ)でも、性暴力の事実は認定されている。
だが、ホテルは紛争後、当時の建物のまま、営業を再開したのだ。
紛争前、ボシュニャク人約6割、セルビア人約3割だった街の住民は、セルビア人約9割、ボシュニャク人約1割に変わった。性暴力の事実は、セルビア人が多数を占める当局によって「隠蔽」されてしまったのだ。
筆者は2018年3月、このホテルを訪れた。取材に同行してくれていたボシュニャク人の助手と運転手は、私をホテル前に下ろすと、「明日昼に迎えに来る。我々は一刻も早くこの町から出たい」と言って、去っていった。
観光シーズンではないが、ホテルは多くの観光客が宿泊していた。駐車場は8割方、車で埋まっている。多くは隣国のセルビア、モンテネグロのナンバープレートだ。
ホテルに入ると、レセプション、エレベーターとも旧ユーゴ時代に建てられたことを感じさせる年代物だった。受付の女性に「1泊したい」と申し出たが、英語が通じない。館内には英語の表記がなく、欧米の観光客は訪れないようだ。
当時の光景とのギャップが大きすぎた
身振り手振りで、何とか部屋を確保した。廊下には赤い絨毯が敷かれ、部屋のドアは濃い茶色に塗られている。これらの一室一室で性暴力が行われていたと想像すると、身の毛がよだつ。
私が取った部屋はシンプルなシングルルーム。アメラさんによると、ベッドのマットレスは新しくなっているが、ベッドフレームは当時のままだという。