年齢:60歳
年収:1400万円 サラリーマン時代の2倍に。趣味に費やすお金も増えた。
貯蓄:約400万円 稼いだお金の大半は会社につぎ込んでいます。徐々に増やしたいですね。
住居:会社を起こすまで賃貸暮らしを続ける。2004年に4200万円で東京都日野市にマンションを購入。
月の生活費:60万円
10年後のビジョン:真っ白です。ほとんど何も考えていません。社長業はしんどい。できれば働かずにテニスや自転車など、好きなことをして遊んで暮らせればいいですね。
岩本さんは1947年、東京都生まれ。中央大学文学部哲学科に8年在籍するも、除籍に。5年間、左官工として働く。37歳のとき、モック製造会社に就職。工場長やモック事業部長を歴任する。53歳で会社を退職し、株式会社アイテムを設立した。
長袖のTシャツに革紐のペンダント、あごにはちょびひげ。一国一城の主だな、と一目見て思った。東京・八王子で、モックアップと呼ばれる試作品(デザインモデル)の製造会社、アイテムを経営している岩本光雄である。つい最近還暦を迎えたばかりだ。
岩本がアイテムを起業したのは、2001年3月。創業7年目である。業績は順調に推移し、現在の年商は2億6000万円。2年目から黒字に転換し、ある取引先の事業が急激に縮小したことから一度赤字になったが、それ以降黒字が続いている。従業員も13人から22人に増えた。
サラリーマン時代と今とでは生活パターンが大きく変わった。平日は働き詰めの以前に比べて、今は午後、プールやテニスに行くといった時間の使い方もできる。経営者として四六時中、会社のことを考えなければならない、というきつい面もあるが、年収は1400万円と退職時の倍だ。前の会社に居続けたら、肩叩きされるか給料が下がる一方だっただろう。
00年11月、このまま勤め続けても、と悩んだ挙げ句、岩本は勤めていた会社を辞めた。53歳だった。代休消化の意味もあり、翌年1月まで給料が払い込まれることになっていたため、退職したことは妻にも明かさなかった。年が明け、「実は会社を辞めた」という報告を聞かされ、妻は「え~!」とまさに青天の霹靂だった。
起業はもちろん、転職するあてもなかった。新聞の求人欄を眺め、近くに開通したトンネルの通行料金徴収のバイトでもやろうかな、と思っていた。その矢先、元の部下たち3人から「新しい会社をつくってくれませんか」と立て続けに電話があった。人望というものだろう。「俺にもできるかもしれない。とりあえずやってみるか」と一念発起、貯金1000万円と親類縁者などからかき集めた4700万円を元手に、3月には会社を立ち上げた。
現在、大手企業約20社と取引があり、化粧品の容器やデジタルカメラ、携帯電話などのモックを手がける。モックは社内におけるプレゼンテーションやコマーシャルの撮影、あるいは店頭の展示品として使われ、本物と寸分違わない、そっくりの外観が求められる。納期は厳しく、時には徹夜の突貫作業が続くこともある。
岩本とモックとの出合いは半ば偶然だった。三浪して入った大学では授業そっちのけでデモに出かけたりギターを爪弾いたりしていたが、何より下宿近くの飲み屋に入り浸る毎日。午後2時頃起床し、6時には銭湯に出かけ、風呂桶を持ったまま飲み屋に直行、常連客と語り明かし、翌朝、出勤途中のサラリーマンを尻目に下宿に寝に帰る。そんな日々だった。
あっという間に8年が経ち、単位がひとつだけ足らずあえなく大学を除籍に。すでに結婚もしていたから早急に食い扶持を探す必要があった。本人が話す。「飲み屋の常連に左官屋さんがいたんです。うちでどうだ、というから、そのまま彼の仕事を手伝うことになり、2年後に独立、戸建て住宅の壁塗りなど3年くらい、ひとりで左官屋をやっていました。ところが住宅不況が起こり、廃業を余儀なくされたんです」。37歳になっていた。
生まれて初めての就職活動だったが、新聞広告を見て応募した先にすんなり決まった。都内でも有数の試作品製造会社で、それがモックとの出合いだった。営業要員として入社したが、社内の仕事をひと通り把握せよと言われ、見様見真似で図面を読み、「もの」を作ってみた。2~3カ月である程度の製品を作れるようになり、1年後には一人前になっていた。
物づくりの才能があったのだろう、工場長を経て、43歳のときにモック事業部長に就任、出世の階段を順調に上った。ところが7年間、事業部長を務めた後、突然、更迭される。「オーナー会社で、トップとはそりが合わなかったんです。利益を上げるという点は信頼していたのですが、周りの能力がある人が畏縮しがちでついていけなくなりました。ちょうどその頃、思ったことを何でも口にする私に対して、虫の居所が悪くなったのでしょう。ヒラに格下げ、860万円あった年収も600万円に急降下です」。
新しい配属先は、石膏を使って簡易金型を鋳造する部門。初めての経験だった。2年ほど経ち、その部門と他の事業部が合体し、新しい事業部ができると、そこの課長を命じられた。年収は740万円にアップした。「そこでは鋳造のほか、シリコンで型を取り、樹脂を流しこんで複製品を作る注型の仕事も経験できたので、すごく勉強になりました」。結果的に、そこでの経験と仲間が、起業に役立つこととなる。
好きな言葉は「一所懸命」。たとえ意に沿わない場を与えられても、そこで成果を上げれば必ず次が開けるという意味だ。不遇時代をみごとに次のステップにつなげた岩本の人生に重なる言葉である。トレードマークになりつつあるひげもサラリーマン時代は生やしていなかった。「最近、若い人からダンディだと言われるんですよ。起業は特別なことじゃない。誰でもできるものです。でも10年後は遊んで暮らしていたいなあ。働くのはもうたくさん」と明るく笑った。