「クリケットから影響を受けた」説は本当か

生徒や学生たちによる試合のほかにも、イギリス北部で「11人対11人」の実験が行われた。1862年にシェフィールドFCは、既に市内やその周辺に誕生していたほかの14チームに対して、人数を1チーム11人で固定してはどうかと提案した。

シェフィールドは当時の北部の有力都市で、冬の間に何かすることを探していたクリケットの選手たちによって1857年に創設されたシェフィールドFCは、世界最古のクラブとしてFIFAに登録されている。

サッカーのほぼ1世紀前にルールが生まれたクリケットは、「11人対11人」で試合が行われる。初期のクリケットではチームの人数がまちまちで、1チームが20人から25人になることもあった。

1697年、イングランドの新聞「Foreign Post」に掲載された記事には、サセックスでのクリケットの試合は1チーム11人で行われるとはっきり書かれていた。クリケットの選手でこのスポーツの後援者でもあったリッチモンド公爵は、その情報を目に留め、18世紀初めに開催された試合で11人という人数を提案した。

その形がイングランド各地に広まり、1744年にルールとして制定され、それが後にシェフィールドのサッカー場にも影響を与えたということなのだ。

18世紀のクリケットの試合
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最古のクラブは16人や18人で戦っていた

一部の歴史家によって支持されているこの仮説は、夏にクリケットをする11人が冬にはボールを蹴ると考えれば、論理に飛躍があるとは思えない。ただし、この仮説では、ふたつのサッカークラブによる最初の「公式戦」だった1860年12月26日のシェフィールドとハラムの試合が、本書の執筆のために参照した記録によると「16人対16人」で行われた理由の説明がつかない。

また、シェフィールド・ルールで11という数字を決定した後、シェフィールドFCは1865年にロビン・フッドで有名なノッティンガムを訪れて地元のチームと対戦した時、同市のルールに合わせて1チーム18人で試合をしている。このふたつの例のせいで、クリケットがサッカーに強い影響を及ぼしたとの説はやや不利になっている。

ノッティンガムのシャーウッドの森での試合から2カ月後、ロンドンの協会(後に正式な国内連盟となるイングランドサッカー協会)とシェフィールドは、ルールの基準を統一するためそれぞれの都市の「選抜された選手」による試合の開催を決定した。

北の代表者たちは1チーム11人による試合を提案した。首都の関係者たちの中には、ロンドンのチームに選手としても参加していたチャールズ・アルコック監督のように、イートン、ハロウ、あるいはケンブリッジ時代に11人での試合を経験していた人たちもいたことから、相手の提案を受け入れた。