サッカーはなぜ11人対11人になったのか
最初のルールには1チームの選手の人数が具体的に示されていなかったことについてはすでに説明した。出場する選手の人数は試合の開催に合意した時点で、両チームのキャプテンによって決定された。
FIFAは「(それぞれ11人の選手から成るチームでのサッカーという)慣習は1871年に始まったチャレンジカップ・フットボール・アソシエーション、現在のFAカップのルールにおいて確認できる」としている。しかし、どのような経緯でその基本的な数字に落ち着いたのだろうか?
11人の選手同士で争われたことが知られている最初期の事例はイートン、ハロウ、チャーターハウスといったエリート高校の校内対抗試合で記録されている。この数字が選ばれたのは偶然の結果で、生徒たちが月曜日から金曜日まで、もしくは学年を通して滞在する学校の寮の寝室一部屋の生徒数と同じだった。ほかの教育機関では、生徒たちが寝泊まりする部屋の大きさや数によって、1チームの人数が10人、12人、15人、あるいはそれ以上のこともあった。
このような人数の違いは別の学校のチーム同士の対戦が決まると、より顕著になった。1840年、ケンブリッジ大学で行われたシュルーズベリー・スクールとラグビー・スクールの卒業生の試合では、一方のチームが15人だったのに対して、もう一方は……なんと25人もいたのだ!
試合は混乱して収拾がつかず、0対0の引き分けに終わった。11人という人数の由来の別の説として、ひとつの寝室の10人の生徒に、教師がゴールキーパーとして加わってチームを作ったからだとするものもある。
イートン校vsハロウ校で11人対決に
1834年12月、イートンの生徒たちが自分たちの学校で試合をしようとハロウのチームを招待した時、11という人数が学校の壁を越えた。ハロウは招待を受け入れたが、それぞれのチームが11人ずつで試合をするのならば、という条件を付けた。イートンはそれに同意した。
その当時、招待した側のチームが相手の要求する規則を受け入れることはめったになかった。事実、1827年にイートンはウインチェスターとの試合を、相手側から両チームの選手が雨靴をはいてプレイすることという要求があったために拒否している。イートンとハロウの試合はバランスの取れたチーム構成を示し、両校の生徒たちがカレッジに進むと学校の垣根を越えた。ふたつのカレッジ間の「ダービー」はその後も続いた。
さらには、ケンブリッジなどの大学に進んだ卒業生同士の間でも行われた。そのケンブリッジ大学では、1862年にある試合を45分ずつの前半と後半に分けて実施することで合意に達した。これがサッカーでの1試合90分間の最古の記録で、この時間が後にすべての公式戦で承認されることになる。