社会のリベラル化はよいこと。だが…

「わたしが自由に生きる」なら、当然のことながら、「あなたも自由に生きられる」権利を保障しなければならない。

この自由の相互性・普遍性がリベラリズムの基礎で、現代では、人種や民族、性別、国籍、身分、性的指向など自分では変えられない属性による差別はどんな理由があっても許されなくなった。これが「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」で、PCとかポリコレと呼ばれる。

これまでマイノリティはきびしい差別に苦しんできたのだから、リベラルな社会を目指す運動が、総体としてはひとびとの厚生(幸福度)を大きく引き上げたことは間違いない。リベラル化は、疑いもなく「よいこと」だ。

ところがその一方で、「絶対的な正義」の基準を決めたことで、有名人の過去を徹底的に調べあげ、正義に反した言動をした者を吊るし上げる運動が起きるようになった。ネットに保存されたデータが永久に検索されつづける「デジタルタトゥー」や、SNSによって怒りや共感を瞬時に共有するテクノロジーがこの大衆運動を過激化させた。

英語圏ではこうした活動家(アクティビスト)は、「ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(社会正義の戦士)」と呼ばれ、SJWと略される。キャンセルカルチャー、ポリコレ、SJWは世界を覆うリベラル化の大潮流を背景とした共通の現象で、日本にもいよいよその波が押し寄せてきたようだ。

許される愚行と許されない愚行の違い

「差別は許されない」のは当然として、過激化するキャンセルカルチャーには次のような疑問がある。

一つは、「過去の愚行は永遠に許されないのか?」。

東京五輪開会式の演出で問題になったのはいずれも20年以上前の出来事で、いじめにいたっては小学校時代の行為まで批判されている。子ども時代の過ちがいつまでも批判されるような社会では、誰も暮らしたい(子育てしたい)と思わないのではないか。

これについては、「今回はあまりに悪質だからみんな怒っている」との反論があるが、その場合は、「許される愚行と許されない愚行は、誰がどのような基準で決めるのか?」という問いに答える必要がある。

「被害者に謝罪していないからだ」という意見もあるが、謝罪していても「誠意がない」「被害者が納得していない」「そんなものは謝罪とはいわない」とされて炎上するケースはいくらでもある。

あまり指摘されないが、「過去の行為は(どれほど謝罪しても)未来永劫えいごう許されない」というのは、隣国が主張している「被害者中心主義」とまったく同じだ。