『より善く生きようとして、なおさらせわしなく何かに忙殺される』

職務に追われ、多忙な生活に追われて、人生を短くしている愚。しかし、それ以上に愚かなのは、あれをしなくては、これをしなくてはと、自分から心を忙しくしていることなのだ。

セネカは他の場所で、ローマ皇帝のアウグストゥスさえもが、国務をはじめ、おのれの地位や権力を保持するための活動より、「いつかは必ず自分のために、自分とともに生きる閑暇を得ること」を、人生最大の幸福としていたと記している。そして、老いや死についてはこう述べる。

生きるすべは生涯をかけて学び取らねばならないものであり、また、こう言えばさらに怪訝けげんに思うかもしれないが、死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないものなのである。

誰もが現在あるものに倦怠感けんたいかんを覚えて生を先へ先へと急がせ、未来へのあこがれにあくせくするのである。だが、時間を残らず自分の用のためにだけ使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。

それゆえ、誰かが白髪であるからといって、あるいは顔にしわがあるからといって、その人が長生きしたと考える理由はない。彼は長く生きたのではなく、長くいただけのことなのだ。

人は、より善く生きようとして、なおさらせわしなく何かに忙殺される。生の犠牲の上に生を築こうとするのだ。

何かに忙殺されている人間のいまだ稚拙ちせつな精神は、不意に老年に襲われる。何の準備もなく、何の装備もないまま、老年に至るのである。

われわれが起き伏し、同じ歩調でたどる生のこの旅路、やむことなく続き、矢のごとく過ぎ行くこの旅路は、何かに忙殺される者には、終着点に至るまで、その姿を現さない。

過去を忘れ、今をなおざりにし、未来を恐れる者たちの生涯は、きわめて短く、不安に満ちたものである。終焉しゅうえんが近づいたとき、彼らは、哀れにも、自分がなすところなく、これほど長いあいだ何かに忙殺されてきたことを悟るが、時すでに遅しである。

彼らは、忙殺されていた何かに見離される時がいつかやって来れば、閑暇かんかの中に取り残されて狼狽ろうばいし、その閑暇をどう処理してよいのか、その閑暇をどう引き延ばせばよいのか、途方に暮れるのである。

シニア男性
写真=iStock.com/simarik
※写真はイメージです。

他人のために生きるほど惨めな人生はない

あとは、結論部を引くだけでいいだろう。

親愛なるパウリーヌス、そういうわけだから、俗衆から離れるがよい。そうして、その年齢にはそぐわないほど多くの出来事に翻弄ほんろうされてきた君も、ようやく静謐せいひつの港に帰りつくがよい。考えてみたまえ、君はどれほど多くの激浪に遭遇したことか。私人としての生活の中で、どれほど多くの嵐に耐え、公人としての生活の中で、どれほど多くの嵐を招来したことであろう。たゆみない労苦に満ちた試練を克服してきたことで、今や君の徳性は十二分に実証されている。その徳性が閑暇の中でどのような働きをするか、試してみることだ。君の人生の大半が、いや、少なくともその最良の時期が国家に捧げられた。君のその時間の幾許いくばくかを君自身のためにも使いたまえ。(中略)

何かに忙殺される者たちの置かれた状況は皆、みじめなものであるが、とりわけ惨めなのは、自分のものでは決してない、他人の営々とした役務のためにあくせくさせられる者、他人の眠りに合わせて眠り、他人の歩みに合わせて歩きまわり、愛憎という何よりも自由なはずの情動でさえ他人の言いなりにする者である。そのような者は、自分の生がいかに短いかを知りたければ、自分の生のどれだけの部分が自分のものであるかを考えてみればよいのである。