加害者の性的暴行を別の部員が止めることは不可能に近い

それでは、今回の同志社大アメリカンフットボール部員の事件のように、被害者が部とは関係しない一般人の不祥事事例についてはどうか。

これらの事例の多くは、加害者以外の部員にとって突発的に生じているため、関与しない部員が阻止することは極めて困難である。また、運動部自体が、一般人に対する性暴力を黙認・支持しているケースはまれである。性暴力を黙認・支持する風潮が現存している部に対しては、活動の停止や大会参加の辞退といった対処は妥当であるが、そのような風潮がなければ、一般人に対して性暴力を行った部員の責任を除き、関与しなかった部員に対して連帯責任を問うことは問題があると言える。

以上のように、海外の研究に照らし合わせれば不祥事に対して連帯責任を問うべきかどうかを区分することができるが、日本では様相が異なってくる。

体罰の研究』『校則の話』(共に三一書房)の著者である教育評論家の坂本秀夫氏は、高校野球で連帯責任を課すのは前近代的な支配関係が残っているためであり、野蛮な現象であると主張した。自身の行為にだけ責任を持ち、他人の行為には責任を持たないことが近代法の常識であるという。また日本弁護士連合会は2011年に、スポーツ界でみられる連帯責任の考え方は、競技者の権利侵害につながると指摘している。

しかしながら、上述のように私は連帯責任否定論者ではない。個々の事例の状況を加味せずに、いたずらに連帯責任を課すことが問題であるとする立場である。その際に、RäikkäやMillerが示した条件を考慮することが重要であると考える。

日本の連帯責任は「世間の批判をそらすための慣習的なもの」

とはいえ現実においては、運動部活動において不祥事が生じた場合には、個々の事例を加味せず、反射的に活動の停止や自粛を行う(または求める)傾向が根強く残っている。確かに、このような対処が現在の日本においては、世間からの批判を減らし、危機管理の観点からは有効である。

しかしながら、連帯責任を課されるべき対象ではない者達に対して納得のいく説明を行えず、これまでの慣習や空気で対処がなされることは好ましくない。この流れを日本でドラスティックに変えることは難しいが、少しずつ変えていく必要があると強く思う。