「ロシアこそがユーラシアを一つにまとめている」
ユーラシア主義の誕生は1920年代である。
ロシア革命の後、プラハやウィーン、ブルガリアのソフィア、ベルリン、パリといった都市へと移住していった思想家たちによって構想されたのだ。その代表者の一人が、地理学者で経済学者のピョートル・サヴィツキーである。
彼によれば、ウラル山脈によってヨーロッパとアジアとを分割するのは誤りであり、両者を合わせたユーラシアをアメリカ、アフリカに次ぐ“第三の大陸”と考える必要がある。その地域は一つのまとまりとして、「地理的に見た場合の独自の世界」を形成している。
そのまとまりが「ユーラシア」であり、ロシアこそがその中心となる。
サヴィツキーはその根拠として、植物相が共通していることを挙げる。ユーラシア地域は東から西にかけて、ツンドラ、タイガ、ステップ、砂漠といった地帯が絡み合い、三つの平原がそれらのユーラシア一帯を北から南までつないでいる。
このような条件下で、ユーラシアは植物相の観点からも一つの地域として見ることができるというのだ。地理的な起伏から言っても(ウラル山脈が便宜的にヨーロッパとアジアを分かつ「偽りの境界線」となっているのを除いて、この地域には大きな起伏は存在しない)、気候から言っても、この一帯には共通性が認められる。
ユーラシア大陸内では多様な要素が共存するだけではない。だからこそ、世界の中でユーラシアを地理的な一つの大きなまとまりとすることができるというわけだ。サヴィツキーはまた、ロシアこそがユーラシアを一つにまとめているとも言う。
「ロシア=ユーラシアは、旧世界(アメリカ大陸発見前の世界、ヨーロッパ・アジア・アフリカ)の中心である。この中心を取り払ってしまえば、ユーラシア大陸の辺境地域(ヨーロッパ、近東、イラン、インド、インドネシア、中国、日本)は『雑多な組み合わせ』に過ぎなくなる」
「ロシアは、ヨーロッパの国々の東と、『古い定義における』アジアの北に広がる広大な国で、ヨーロッパとアジアとをつなぐ重要な位置にある。ロシアこそがユーラシアを一つにまとめているという事実はこれまでも明らかであったが、将来、より重要な事実として認識されることになるだろう」
プーチンの教祖・ドゥーギン
ユーラシア主義はソビエト時代には注目を集めることはなかったが、冷戦終結後、1990年代になって、再評価されることとなる。
そんな新たなユーラシア主義(ネオ・ユーラシア主義)の思想家の中で、最も有名な人物はアレクサンドル・ドゥーギンだ。
彼はまた、さまざまな誤解にさらされている人物でもある。預言者のような髭を生やし、真っ青な瞳を持つ風貌からくる印象も相まって、プーチンの「教祖」とも呼ばれることもある。2人の個人的交流はそれほど深くないようだが、プーチンがネオ・ユーラシア主義を熱狂的に持ち上げるメディアの影響をいやが応にも受けていることは確かである。