「領収書を残すな」旧統一教会の驚くべき誡め
ところで、心理的圧力の有無は、原告側が論証するしかない。
旧統一教会は、献金させたという事実すら、進んで認めたわけではなかった。
そもそも献金の際に、教団は領収書や受取書を発行していない。献金の記録を残すような行為は非信仰的であるとして、誡められた、と原告はいう。
したがって、弁護士は、原告の預金通帳を調べて、生活上不必要で不自然な出金の記録から献金相当額を割り出し、原告の記憶に基づいて献金を強要された事実を確定していったのである。
こうして確定された物品購入や献金は計40回余に及び、総額5億円以上に達した。
裁判所は献金1回ごとに、原告と被告、関係者の証言から心理的圧力の有無を調べた。必要な手続きだ。しかし、その年に70歳になる原告には厳しい審理だった。
考えてみてほしい。詳細なメモや記録なしに、12年にわたる40回の行為を正確に思い出せるだろうか。
現役バリバリのサラリーマンでも、自筆の手帳や職場の記録なしで、数年間に行った出張の様子を、年月日、行き先、宿泊ホテルを含めて想起できるだろうか。
あるいは議事録なしに、誰がどのような発言をどのような調子で行ったか、といった会議の次第を想起できるだろうか。
古い記憶を消してメモリーを空けておいてこそ、頭が働くのではないか。
原告に、信者であった期間の全般にわたって鮮明な記憶を求めるのは酷だ。
筆者は、これまで20人以上の旧統一教会元信徒の方に聞き取り調査を行っているが、彼らが比較的明確に回想できるのは、入信前後から旧統一教会員としての自覚を深めるまでの期間と、宗教活動に疑問を抱き脱会して、その後社会復帰するまでの期間である。
「旧統一教会への損害賠償請求」難しい理由
先ほど述べたように、旧統一教会信者は特殊な言語と論理でコミュニケーションを行い、生活のスケジュールと人事には殆ど自由裁量の余地がない(幹部は別として末端信者ほど)。
つまり、およそ自分で勝手に考える余地もなければ、その必要もない。
それに心地よさを感じる信者と、理不尽さや居心地の悪さを感じる信者双方があるが、どちらもルーティーン化された日常生活と宗教生活に関わるところの記憶は曖昧である。
元信徒の人達が損害賠償請求の裁判を起こす際に記憶だけに頼ると、必ずこの問題に直面する。