シェイクスピア、ロザリンド・フランクリン、アレクサンダー・フレミングはロンドンへ。ワトソンとクリックはケンブリッジ大学へ。パスツールはリールを経てパリへ。ザッカーバーグはシリコンバレーへ。それぞれ若いうちに大都会または大学、あるいは大都会にある大学に拠点を移している。

「私は運は信じないの」とオプラ・ウィンフリーは2011年に語っていた。「運は準備が機会に出会っただけよ」。これは真実だが、そのためにはまず出会わなければならない。ウィンフリーはシカゴに移った。

アテネ、ウィーン、パリ、ニューヨーク

次に、本書で取り上げている天才たちと、その人たちが偉業を成し遂げた都市を見てみよう。

アテネはソクラテスとプラトンが生まれたところだが、アリストテレスはそこに17歳で移住した。ロンドンはファラデーの生まれた街だが、シェイクスピア、ディケンズ、ヴァージニア・ウルフは転入組となる。

シューベルト、アルノルト・シェーンベルクはウィーン生まれだが、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、マーラーは移住組で、フロイトもそうだ。アレクサンダー・ハミルトンはニューヨークへと移住し、さらに移民の息子であるリン=マニュエル・ミランダの素晴らしいミュージカル作品『ハミルトン』に間接的に影響を与えた。

草間彌生、ジャクソン・ポロック、ロバート・マザーウェル、マーク・ロスコ、ウォーホルがニューヨークに来ていなければ、ポストモダン・アート界はどうなっていただろう?

アンディ・ウォーホルとペットのダックスフントのアーチー
アンディ・ウォーホルとペットのダックスフントのアーチー(写真=Jack Mitchell Archives/Jack Mitchell/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

草間は1950年代に保守的な日本の片田舎からニューヨークに移り住んだことについて、「出ていかなくちゃいけなかったの」と語っていた。

大学について言えば、ニュートンはケンブリッジに行き、アインシュタインはベルリンにある世界最高峰の学術研究機関マックス・プランク研究所で過ごし、最晩年をプリンストン高等研究所で過ごしている。

テクノロジー界の巨人、マスク、ブリン、ラリー・ペイジ、ピーター・ティールは在籍年数こそさまざまだが、スタンフォード大学に行っている。天才は故郷にじっとしていない。天才はより環境の整ったところへ拠点を移す。

「パリへ行かなかったら、今の私はなかっただろう」

この動かずにはいられない衝動を「天才の反慣性の法則」と呼ぶことにしよう。

もちろん、法則には例外がある。たとえばライト兄弟だ。彼らはオハイオ州の小都市デイトンの近くにとどまった。植物学者のグレゴール・メンデルとジョージ・ワシントン・カーヴァーは野原に簡単に行けなければならなかった。ダーウィンのような自然科学者や、クロード・モネ、ジョージア・オキーフなどの風景画家もまた、その職業上の必要性から、この法則が適用できない。

しかし、概して天才は田舎にとどまらない。

『星月夜』を描いたゴッホでさえ、若い頃に、「50フランほど月々の生活費が安く済むからといって、田舎に戻ってきてほしいとは私に言えないと思う。ここアントワープであれ、このあと行くパリであれ、この先ずっと私は街で密接な関係を築いていかなければならないのだから」と書いている。そして1886年、ゴッホはパリに移り住んだ。

同じく、ゴッホとほぼ同時代、あるいはその少しあとのピカソ、マティス、モディリアーニ、マルク・シャガール、ジョルジュ・ブラック、コンスタンティン・ブランクーシ、ジョアン・ミロ、ディエゴ・リベラなどの画家も生まれ故郷を離れ、作曲家ではクロード・ドビュッシー、ストラヴィンスキー、アーロン・コープランド、詩人や作家ではエズラ・パウンド、ギヨーム・アポリネール、ジョイス、ガートルード・スタイン、ヘミングウェイ、フィッツジェラルドなども大都会に移住している。

「パリへ行かなかったら、今の私はなかっただろう」とシャガールは語っており、「誰であろうと、私たちは必ずパリに戻ってしまう」とヘミングウェイは語っていた。