そして、キーウから北に一五〇キロメートルほど離れたその古い原子力発電所で、コンピュータ画面は「黒く、黒く、黒く」なった。チョルノービリの技術管理者である、ぶっきらぼうなセルゲイ・ゴンチャロフは当時の体験を教えてくれた。

ゴンチャロフがちょうど昼食から戻り、時計の針が午後一時一二分を指した時だった。二五〇〇台のコンピュータ画面が、七分間にわたって一斉に真っ黒になったのだ。あちこちから次々と連絡が入り始める。

何もかもがダウンしていた。ゴンチャロフがチョルノービリのネットワークを躍起になって回復させようとしていた時、放射線レベルを監視するコンピュータ画面が真っ黒になったという連絡が入った。

三〇年以上も前の一九八六年に爆発した原子炉の放射線量をセンサーするコンピュータ画面のことである。放射線量レベルが安全域にあるのか、それともいままさに不吉な破壊攻撃を受けているのか、誰にもわからなかった。

チョルノービリの原子力発電所
チョルノービリの原子力発電所(写真=Tim Porter/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

よみがえる30年前の原発事故の記憶

「あの時はコンピュータを回復させることに必死で、どこから攻撃を受けているのか考える余裕はなかった」ゴンチャロフが続ける。「だが、いったん頭を落ち着かせて、ウイルスが広まっていく速さを見た時に、いま見ているものはもっとずっと大きなものだ、自分たちは攻撃されているんだとわかった」

ゴンチャロフはメガフォンを使い、自分の声がまだ聞こえる者に向かって、コンピュータのコンセントを壁から引き抜けと叫んだ。それ以外の者には、外へ出て、立入禁止区域の放射線レベルを手動で観測するように命じた。

ゴンチャロフは寡黙な男だ。人生最悪の日の話をする時でさえ、淡々とした口調だ。感情を露悪的に表したりしない。しかしながら、ノットペーチャ攻撃を受けた日のことはこう言った。「精神的なショックに陥ったよ」あれから二年が経ち、彼がそのショックから立ち直ったのかどうか、私にはわからなかった。

「私たちはいま、まったく違う時代に生きている」ゴンチャロフが言った。「いまとなっては、ノットペーチャ前とノットペーチャ後の生活だけだ」

私がウクライナで過ごした二週間、どこへ行っても、ウクライナ人はみな同じように感じていた。

憲法記念日を狙った嫌がらせ

バスの停留所で出会った男性は言った。「ちょうど車を買おうとしていたんですが、販売店の店員に断られてしまったんです。ウクライナの中古車販売で、そんなことは初めてだったのではないでしょうか。でも、登録システムがダウンしてしまったんです」