基本アイデアを出してくれたのは妻
入社から5年ほど経ったとき、都バス運転手のスーツ納入のコンペで大きな入札を取れました。部の中ではその年ナンバー1の売り上げで、これによって「都バスをやった井上だな」と、社内で認知をされるようになりました。周囲からの自分を見る目が少しずつ変わってくるのがわかりました。
その後9年目に、香港へいかないかと声がかかりました。実務研修として赴いたのですが、僕の部からの赴任は初めてでした。香港では小さい会社の社長さんとお付き合いをする機会が多くあったのですが、当時の香港はたとえ社員数が少なくとも、会社をつくって自分が社長だという人が一番の影響力をもつ社会でした。「いつまで伊藤忠にいるつもりだ」「俺と一緒にやらないか」とずいぶん焚きつけられましたね。ここでの2年間の影響は今でも大きいです。
――学生時代に思っていた起業への憧れに火がついた。
そうですね。僕は起業をしたかったのだったと思い出しました。
――確かにその頃の香港というのは、今でもそうだと思いますが、優秀な人ほど自分で事業をはじめるという時代でしたね。よく社費留学のあとすぐに退社をしてしまう人などもいますが、その時に動き出してしまおうとは思わなかったのですか。
それは思いませんでした。帰国後の99年、伊藤忠全体でインターネットビジネスを考えようという機会があり、社内で10億円のファンドを出すからなにか考えてこいという課題が出ました。そのときに「雑誌に載っているアイテムがそのまま検索して買えたらいい」と思いついたのです。実をいうと基本アイデアは妻が出しました。話しているうちにこれはファッションの流通を変えるのではないかと思えてきてワクワクした。参考にしたのはDELLモデルです。結果、数十の企画が集まった中から、第1号でファンドをもらえました。金額は5000万円でした。
――99年というと、Eコマースはまだまだ浸透していないころですね。他業種の実例を見て、自分のやりたいことと結びつけてしまったわけですね。立ち上げ時はユニフォームの仕事をやりながら、新規事業の立ち上げをやるという感じでしたか。
いいえ。その点、感謝をしているのですが、当時私は30社くらいの担当をもっていたました。すると上司が「井上がこんなことやろうとしているからみんなで(井上さんの持っている仕事を)分担しようぜ」と音頭をとって新規事業に集中できる環境をつくってくれた。みんなで応援してくれました。