安倍元首相の銃撃事件後、何も失うものがない「無敵の人」という言葉がメディアやネットで再び注目されている。この言葉の生みの親でもあるひろゆき氏は事件後に、「今の日本は社会的弱者や不幸な人を見なかったことにしている」と指摘。ひろゆき氏が考える、無敵の人を減らすための正解とは――。

※本稿は、西村博之『ひろゆき流 ずるい問題解決の技術』(プレジデント社)の一部に、安倍元首相の事件を受けて加筆したものです。

撮影=松永学
2022年1月、パリにて撮影。

少数派の声は政治にも社会にも届かない

安倍晋三・元首相の銃撃事件があって、メディアやネットでは「暴力はよくない、言論でなんとかすべき」といった発言が出ていました。でも、そんな当たり前のことを言っていても、今回のような問題は何も解決しないでしょう。

今回の参院選で山際大志郎・経済再生担当大臣が街頭演説で、「野党の人から来る話は、われわれ政府は何一つ聞かない」と言っていました。それが現実の政治なんです。それを与党の政治家が言っても、少し注意されただけで撤回すらしていません。

そうすると少数派の人は、「何を言っても自分たちの声は届かない」となってしまいますよね。

少数派がいくら声を上げても、政権中枢の人が聞かないといっているので、「それなら言論では変えられないよね」と考える人が一部で出てきても不思議ではありません。「暴力はよくない、言論でなんとかすべき」というのは単なるきれいごとで、言いたければ言えばいいんですが、それで社会は変わらないですよね。

それよりもむしろ、「この社会を潰してやる」「この社会はつらいから、もう死んだほうがラクだ」という人たちをどれだけ減らしていけるかを考えるほうが重要だと、僕は思っています。

なぜなら、これは言論の問題ではなく、生存権の問題なんです。

なぜ日本で社会に対して絶望して、自殺ではなく他殺を選んでしまう人たちが後を絶たないのか、なぜそういう人たちを防げないかを考えないと、状況は変わらないでしょう。

自分ではなく他人を殺す「無敵の人」

いま日本では、年間に2万人ぐらい自殺をする人がいます。「この社会で生きていてもツラいから、死んだほうがラクだよね」と、自分で死を選ぶ人がいるわけです。

その中に、自分を殺すのではなく、他人を殺すことで社会を卒業しようとする人たちがいます。「社会からこれだけ疎外されてるんだから、別に一発やり返してもいいよね」「どうせ死ぬんだから、死刑や刑罰も怖くないし」といった考えの人が起こす事件が、ここ数年いくつも起きました。

僕は15年前ぐらいに、死刑や警察に逮捕されることを怖がらないで罪を犯してしまう人のことを「無敵の人」という呼び方をしました。社会的な信用を失うことを恐れない、財産も職も失わない、犯罪を起こして他人を巻き込むことを躊躇ちゅうちょしない、「失うものが何もない人間」という意味です。

著書『ひろゆき流 ずるい問題解決の技術』でも書いたのですが、社会に対して絶望して、「どうせ死ぬなら他人も殺してしまおう」という方向に向かってしまう事件は、欧米では珍しくありません。ほかの先進国に比べたら、日本ではまだ多くはないのですが、それでもここ10年は1~2年に1度くらいの頻度で起きるようになってきました。

西村博之『ひろゆき流 ずるい問題解決の技術』(プレジデント社)
西村博之『ひろゆき流 ずるい問題解決の技術』(プレジデント社)

2016年の神奈川の障害者施設殺傷事件や、2019年の京都アニメーション放火殺人事件、2021年に大阪の心療内科に火をつけた北新地ビル放火殺人事件、小田急線や京王線で起きた刺傷事件、だいぶ前になりますが2008年の秋葉原通り魔事件など、それまではふつうに暮らしてきた人が、一転して重大事件の加害者になる事件がいくつも起こりました。

こうした「無敵の人」に対しては、既存の刑事罰を強化しても、犯罪を抑止する効果はあまりありません。逮捕されて刑務所に入ることをイヤだと考えるのは、社会に属すことに居心地のよさを感じる人たちだけです。社会を敵対視している人にとっては、刑務所や死刑ですら苦痛からの解放のように考えてしまう場合もあるからです。