1955年の結党以来、そのほとんどで政権党であり続けている自民党。その中には有象無象の議員が在籍し、離党者や除名者もやがて自民党に戻ってくる。それはなぜなのか? 政治記者である蔵前勝久氏は「自民党で最後を迎えることこそが自らの強さの証明であり、政治家としての誇りの回復、という意味があるのではないか」という――。

※本稿は、蔵前勝久『自民党の魔力 権力と執念のキメラ』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
※役職名は当時のものです。

国会議事堂
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離党した野中広務氏を復党させた二階氏の幹事長権限

16〜17年、二階幹事長が旗を振って、かつて離党したり、除名されたりした元議員が相次いで自民党に復党した。

16年6月に復党したのは、野中広務氏。1945年に戦争で召集され、高知で終戦を迎えた。戦後、地元の京都府園部町(現・南丹市)に帰り、51年に町議に初当選。33歳で町長になった。府議を経て衆院選に初当選したのは83年。国会議員としては57歳という遅咲きだったが、権力のありかを見抜く政局観の鋭さを武器に、官房長官や幹事長といった権力の階段を駆け上がった。その後、郵政民営化を掲げた小泉純一郎首相と対立して2003年、政界を引退した。

引退後も全国土地改良事業団体連合会(全土連)の会長を務めるなどしていたが、11年、民主党政権が土地改良関連予算を大幅削減したことを受け、自民党を離党した。与党民主党の小沢一郎幹事長が全土連について「政治的態度が悪い。そんな所に予算をつけるわけにはいかない」と敵視したことが大きく、野中氏は離党に際して「国から補助金をもらっている団体の会長は政党色がない方がいい」と語った。

その野中氏の後任として全土連会長に就いたのが二階幹事長だった。二階氏は「参院選までに復党手続きを」として、幹事長の権限をフル活用し、野中氏の「復権」を主導した。

「除名」された綿貫民輔氏を復党させた慣例変更

次いで党に戻った大物は、幹事長や衆院議長を務めた綿貫民輔たみすけ氏だった。綿貫氏を復党させるため、自民党は、慣例を変更した。綿貫氏は郵政民営化法案の採決で造反し、05年9月の郵政選挙では国民新党を結成して出馬。明らかな反党行為であり、自民党は離党届を受理せず、綿貫氏は「除名」された。