なぜヒトには発情徴候が存在しないのか?

さて、高等霊長類であるヒトにもまた、発情徴候がありません。いったいこれはなぜでしょうか。精神分析学者のジグムント・フロイトは、ヒトは二足歩行へと進化したことによって、嗅覚から視覚が優位となり、結果、発情徴候がなくなったという「直立二足歩行と視覚の優位」説を唱えました。

多くの哺乳類は、生殖器や肛門から発情徴候時の独特のにおいを発します。そのため、四足歩行に近ければ近いほど、鼻を性器の周辺に近づけて、そのにおいを嗅ぐのです。ところが二足歩行となった人類は、鼻は上の方に移動していますから、性器からのにおいを嗅ぐことは難しくなります。このために嗅覚が退化し、代わりに二足歩行によって視界が拡大し、視覚から得られる情報処理能力の向上のために脳が発達していくこととなります。このようにして、ヒトは発情徴候を必要としなくなったというのです。

また、フロイトの説とは別に、人類学者のヘレン・E・フィッシャーは「性の強者つわもの」説を唱えています。人類の祖先は乱交的な性を営んでおり、女性が自分と子を守る保護者として特定の男性をつなぎとめるために、日常的に性交渉を可能にし、しかも排卵の徴候を隠蔽いんぺいする「性の強者」になったのだ、とフィッシャーは言います。そして、男性は妊娠可能な日を特定できないまま、子を残すために特定の女性と性交渉を続けます。性の相手であり続けることで、女性は男性から保護と食料の供給を保証されるというわけです。

発情のサインがわからないゆえに性的な想像力が高まった

また、人類学者のオーウェン・ラブジョイは、人類は直立二足歩行を得たことで、男性が食料を確保して家族へと供給し、女性は子育てをするという分業体制が生まれたとしています。その過程で、女性は男性をつなぎとめるために発情徴候を失い、日常的に性交が可能になったとしています。

これらの見解に対して、日本の霊長類学者である山極壽一さんは、人類は、メスは性皮が膨脹しないテナガザルやゴリラなどの性質を受け継ぎ、オスはメスの発情によって刺激を受けなくても性的に興奮できるというオランウータンやゴリラの性質も受け継いだのだ、と主張しています。

これらの説はあくまでも仮説であり、本当のところはよくわかっていない、というのが現状でしょう。しかし、いずれにせよ、人間は、発情徴候がないという特徴の結果、発情のサインが目に見えてはわかりませんから、それを補うために性的な想像力が高まったと考えられます。人間の文化・社会における性の多様さは、このような生物進化の歴史の中で育まれてきた先にあるものだということを、ここでは押さえておきたいと思います。