この歴史的成果をジェンナーは論文として英国王立協会に提出したが、全く無視された。彼が一介の田舎の開業医に過ぎなかったからであろう。彼はやむなく、この成果を書物として出版し、英国を除く欧米諸国はこの書物を直ちに自国語に翻訳し、ジェンナーの創始した「牛痘法」は急速に広まっていった。
なお後年、功成り名遂げたジェンナーは、ロンドンの医科大学から教授として招かれたが、一部の人々は彼の教授としての資格を確かめるため学力試験を行う、と主張した。結局ジェンナーは教授就任を断った。このような「成り上がり者に対する嫌がらせ」は、我が国のみならず、どこの国にも存在するようである。
健常人を実験動物とする「大規模二重盲検テスト」
ジェンナーに関する今一つの問題は、彼が「牛痘接種」と、これに続く「天然痘接種」を、他人の子どもに対して行ったことである。これは他人の子どもの生命を危険にさらす行為であった。
このため、我が国で流布した「偉人伝」では、ジェンナーは自分の息子の生命を賭けてまで「牛痘法」を確立した偉人であると記されていた。私も少年時代これを読んで感動した。しかし事実は全く違ったのである。少なくとも当時の欧米諸国の「階級制度」のもとでは、ジェンナーの行為の倫理的な側面は取り立てて問題にされなかったのであろう。
これに反して我が国では、江戸時代に世界に先駆けて人体の全身麻酔に成功した華岡青洲は、彼の妻に対して全身麻酔を試みたのであった。そして彼女は、このために失明した。この経緯は現在も美談として称えられている。したがって我が国では、ジェンナーが他人の子どもに行った行為は、人々に受け入れられないであろう。
私の私見では、この我が国と欧米諸国との間の倫理観の差異が、後で論議する「大規模二重盲検テスト」の我が国での不成功の原因をなしているように思われる。なぜなら、倫理的に考えれば、危険が少ないとはいえ、健常人を実験動物として扱うこのテストは、我が国の担当医師にとっても釈然とせず不愉快なものだからではあるまいか。