BPOが見解を出した「対象」はあくまで「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」という、ぼんやりとしていて包括的な、「ジャンル全体」とも言えるものなのだ。

BPOの曖昧な指摘が現場を萎縮させている

これは果たして、言論や表現の自由を守ろうとする者の態度だろうか? むしろ私には「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」全体について、一律に規制しようという意図しか感じられない。

もし、「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティーが健全なものとなり、青少年の発達に望ましくない影響を与えないようにしよう」と思うならば、個別具体的に番組の表現方法を検討するべきではないか。

例えば「Aという番組は、ここのシーンのこの表現が、青少年に悪影響を与える恐れがあるから、もっとこういう表現にするべきだ」とか、個別具体的に「どういう表現ならOK」で「どういう表現は問題がある」と言うべきだろう。

表現にはご存じの通り文脈がある。同じ痛みを伴う笑いでも、前後の表現によっていじめを助長するようなものにも、人に痛みを与えることがいかによくないことかを教えるものにもなりうる。

個別具体例を挙げ、改善するために見解を出すことによってしか表現の質の向上は図れないと私は思う。「痛みを笑いにするのはダメ」といった十把一絡げな見解は、「国家権力による包括的な規制」と何が異なるのか。それは言論の弾圧ではないのか。

テレビ局の上層部には効果抜群

もちろんBPOの見解も、読んでみると「頭ごなしにダメ」と書いてあるわけではない。

「『他人の心身の痛みを嘲笑する』演出が、それを視聴する青少年の共感性の発達や人間観に望ましくない影響を与える可能性があることが、最新の脳科学的及び心理学的見地から指摘されていることも事実であり、公共性を有するテレビの制作者は、かかる観点にも配慮しながら番組を作り上げていくことが求められている」

とあくまで「科学的事実」を指摘し、「視聴者を楽しませるバラエティー番組の制作を実現するためには、番組制作者の時代を見る目、センスや経験、技術を常に見直し、改善し、駆使することが重要であることを改めてお伝えしたい」と自主的な改善を求めるような文面になってはいる。

ライブイベントでのモンタージュとプロダクションのためのビジュアルとオーディオミキサー
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しかし、実質的にこの見解は放送局の上層部に「痛みを伴う笑いは問題となるからNG」であると、絶対的なものとして受け止められている現実がある。それはBPOの委員の皆さんも先刻承知の上なのではないだろうか? その上でこうした「逃げ」を打って「私たちは規制や言論統制をしようとしているのではありませんよ」というポーズを取ったところで、現場にはそうは受け止められないだろうと私は思う。