現在の20代ロシア人の人口縮小を生んだ社会的困難

社会の混乱によって平均寿命が低落した時期には、出生率も大きく低下した(図表4参照)。1981~82年に政府が子育て家族の支援対策を開始した影響もあって、共産主義体制下の1980年代には出生率は上昇しペレストロイカがはじまった1987年までに2.22まで上昇したが、その後、平均寿命と同様、深刻な低落傾向に転じ、91年のソ連崩壊後も低落を続け、1999年には1.16という最低値を記した。

体制移行期には出生率も急落

こうした出生率の低下に対抗するため、プーチン大統領は年次教書において人口問題を大きく取り上げた。そしてそれに呼応して、2006年12月に育児手当等の増額が図られたとともに、出産・育児支援という形の所得再分配として「母親基金」と称する出生に対する大規模な給付制度が定められた。このため、出生率は回復に転じ、2015年には1.78にまで達した。

しかし、その後は、再度、低下傾向をたどることとなった。エネルギー輸出に依存した経済成長にも陰りが見えはじめ、また、平均寿命の回復に伴って年金財政の健全化が重要課題となったため、少子化対策にまで十分、手が回らなくなったためかもしれない。

冒頭に掲げたロシアの人口ピラミッドにおける1997~2001年生れの人口の大きなくびれは、ヨーロッパの中でも特異な現象と言うべき、これまで述べてきた体制移行期の社会的困難を端的に示していたと言えよう。

ロシアの歴史をこのようにたどってくると、私見ではあるが、繰り返されるロシア人の苦難に対してヨーロッパ人が理解を示さない点に、ロシア人が時に大きく暴走する理由が見いだされるのではないかと考えている。

スターリンの粛清や農業集団化のジェノサイドは、ヨーロッパ先進国の思想に基づき先行して世界革命に乗り出したロシアに先進ヨーロッパが助けを寄こさなかったために一国社会主義に路線変更せざるを得なかったために起こったという側面もある。

今回のウクライナ侵攻も、欧米先進国がそそのかした市場経済へ向けた体制移行に伴って生じたロシアの苦難にヨーロッパが助け船を出さなかったため、自分の殻に閉じこもり、ロシア帝国という甘い幻想に浸ってしまったためと考えざるを得ないのではなかろうか。