事業自体は評価されても人事的には評価されず

定信は、人足寄場設立後の江戸の町を見て、

「これによりて今は無宿てふもの至て稀也。已前は町々の橋のある処へは、その橋の左右につらなりて居りしが、今はなし。ここによりて盗賊なども減じぬ」

と書き、「いずれ長谷川の功なりける」と評価している(『宇下人言』岩波文庫)。

しかし、平蔵は、これほどの功績をあげながら、火付盗賊改から遠国奉行などに昇進することはなく、同4年には人足寄場取扱の職も免じられた。

定信を始めとする幕閣は、無宿の減少という功績は認めながら、幕臣として、あるいは武士として平蔵を評価し、それに応じた処遇をすることはなかったのである。

無宿の現実に直面し、彼らを救うために、現場で奮闘した平蔵の多大な努力が無視されたのは残念だが、現在まで名を残しているのは平蔵の方である。

江戸の庶民の願いは「平蔵様を町奉行に」

天明7(1787)年に火付盗賊改の当分加役に任じられた平蔵は、翌年10月、加役本役となり、その後長く本役を務めた。長谷川家は知行四百石の両番家筋で、父宣雄は京都町奉行を務めているので、平蔵も遠国奉行に昇進する可能性はあった。

寛政元(1789)年9月、南町奉行のポストがあいた。平蔵には期するところがあったが、京都町奉行池田筑後守が昇進した。

同3年12月、今度は北町奉行が空席になった。この時は、江戸の庶民まで、是非平蔵様が町奉行になってほしいと期待した。しかし、大坂町奉行の小田切土佐守が呼び戻されて町奉行になり、空席となった大坂町奉行にも任じられなかった。

この時、幕閣が「長谷川は目付を務めていないので、町奉行にはできない」と言ったという噂が流れている。小田切も目付は務めていなかったが、知行三千石で駿府町奉行、大坂町奉行を歴任している。

町奉行は勘定奉行、下三奉行(普請奉行・作事奉行・小普請奉行)、遠国奉行から栄転するのが一般的だから、平蔵が町奉行になれなかったのも仕方がなかった。

しかし、両番筋の旗本である平蔵が、遠国奉行になる可能性は開かれていたはずである。平蔵も、強く出世を望んでいた。なぜ、平蔵にその話が来なかったのだろうか。