職業訓練の賃金は社会復帰に向けて積み立て

定信は、これを許可し、石川大隅守の屋敷がある石川島と佃島の間の中洲を無宿の収容所用地として平蔵に与えた。名称は「加役方人足寄場」と決まった。

「加役」とは火付盗賊改を指し、加役が預かる「人足」の収容所という意味である。「無宿」という名称を使わなかったのは、無宿の更生をめざしたものだったからであろう。平蔵は、無宿に職業を習得させ、社会に復帰させようと考えていたのである。

平蔵は、まず葦が生える中洲の埋め立てから始めなければならなかった。資材は普請奉行から提供されたが、人足には無宿を使い、多大の持ち出しをして土地の造成をした。

寛政2(1790)年2月21日、町奉行から平蔵に22名の無宿が引き渡され、その後も続々と無宿が収容されていった。

人足寄場では、大工、左官、炭団作り、草履作り、紙漉、藁細工などの職人仕事を教え、覚えられない者には力仕事を与え、百姓を望む者には農業もさせた。

紙漉は、勘定所の反古紙を漉き返した。収容者だけではうまくいかず、職人を呼んで漉かせ、江戸市中に売った。これは「島紙」と言って評判がよかった。炭団も良質な材料を使っていたため、よく売れたという。

こうした仕事は、強制労働ではなく、対価として賃金を与え、寄場を出たあとの生活資金とさせるため積み立てられた。

下駄を履いた高齢者の足
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ポケットマネーまで投じた人足寄場の成果

教育の面では、個人の道徳の実践を説く「心学」が採用された。中沢道二という心学者を寄場に派遣し、月3回心学講話を聞かせた。仁義忠孝の道などの話のほか、「堪忍」することが大切だと教えた。

これを聞いた人足の中に、外出して口論し、顔に2カ所傷付けられながら我慢して帰ってきた者がいた。翌日、相手が詫びてきてそれが分かり、お上から褒美として2貫文を与えられるという美談もあった。

長谷川平蔵は、人足寄場に精力を傾けた。幕府が付けてくれた予算は最低限のものだったので、私財を投じてその運営にあたった。自分が設立した人足寄場を、意地でも成功させようと思っていたのだろう。

寄場の収容期間はとりあえず3年を原則としていたが、平蔵の努力の甲斐あって、寛政2年5月、最初の出所者14人を社会に送り出した。以後、毎年200人に及ぶ収容者を社会復帰させることになった。