「心身に難あり」と思われていた幼少期の家光
徳川家光は、慶長9年(1604)に2代将軍・徳川秀忠の次男として生まれた。
家康は孫の誕生を大いに喜び、自分の幼名である竹千代の名を与えた。やがて家光は、三代将軍に就いて将軍の権威を高め、幕藩体制を整備して徳川政権を盤石にするという大きな功績を残した。
家光が誕生する3年前、秀忠には長丸という長男が生まれたが夭折し、家光誕生時にはこの世にいなかった。しかも家光の母は、秀忠の正室・お江だから、彼が将軍に就くのは当然だと思うだろう。しかし、もともと家光は、将軍になる予定の人物ではなかったのである。
当時はまだ、長子相続は確立していなかったのだ。確かに長男が家督を継ぐケースが多かったが、「才覚ある者が跡継ぎにならねば家の存亡にかかわる」という戦国の遺風がまだ残っていた。ゆえに、「心身に難あり」と判断された者は嫡子から排除された。
幼少年期の家光は、ほとんど言葉というものを発せず、家臣に声をかけてやることもなく、何を考えているかわからない子供だった。端から見ても愚鈍に見えたのだろう。
しかも、生来の病弱だった。たとえば、3歳のときに医師も匙を投げるほどの大病をしている。このときは家康が調合した薬で奇跡的に回復するが、26歳のときには疱瘡(天然痘)を煩い、乳母の春日局が病気の回復を願って「一生薬絶ちをする」と誓うほどの重篤な病状に陥っている。その後も眼病、頭痛、瘧などたびたび体調を崩した。
実母の寵愛を受けていたのは弟の国松だった
また、これは巷説だが、少年時代から家光の性愛の対象は男性だけだったといわれ、好んで化粧し、その姿を鏡に映してうっとりしていたという。これでは後嗣の誕生は期待できない。こうしたことから、跡継ぎには不適格だと思えたのかもしれない。
だから秀忠は、家光の2歳年下の同母弟の国松(のちの忠長)を後継者にしようとした。家光にくらべて愛くるしく、賢く思えたからだ。なにより、母のお江が溺愛していた。
家光が乳母(春日局)に養育されたのに対し、国松はお江自身が育てたので、情が移ったのだろう。秀忠という人は大変な恐妻家で、お江にはまったく頭が上がらない。そのため、国松の将軍継承を望む彼女の要望を受け入れたのかもしれない。