「家事は全部奥さんに任せてきたんですね」「ええ」
続けてこうも言う。
「それからやっぱり体力勝負なんですよ。呼吸が苦しいと痩せちゃって、それでますます呼吸が苦しくなってしまいます。だから量が食べられない方は脂肪が多いものを取ったほうがいいでしょう」
「うちは魚が多いからねぇ……」と、女性がつぶやく。
「食事はどなたが作られるんですか?」
私が話しかけると、「女房が作っています」と夫が応えた。
「家事は全部奥さんに任せてきたんですね」
千場医師の言葉に、夫が「ええ」と、うなずく。千場医師は夫に向き合った。
「じゃあご主人は負担なことはありませんか?」
「ありませんね。今のところ」
訪問診療中、夫が椅子から動くことは一度もなかった
30分の訪問診療中、夫が椅子から動くことは一度もなかった。怒ることはないようだが、自分から質問したり、行動したりということがない。千場医師や看護師から聞かれたことには応える。書類にサインを頼まれればする。
けれども妻が息を切らしながら室内の物を取りに行っても、代わってあげようとは思わないらしい。妻も妻で、私が取ってあげようと腰を浮かしたが、「どうぞどうぞ座っていてください」と、制されてしまった。千場医師が言うように「自分の体がそこまで深刻な状態だと思っていない」ようだった。息切れはしても、妻は終始ニコニコ。しかし夫は、ずっと無表情だ。
夫が笑顔を見せたのは、千場医師が“仕事の話”に水を向けた時だった。こんな仕事をしていて、こんな場所に住んでいて、とよくしゃべる。
「それで定年後にここに移られたんですね」
千場医師が話を“現在”に戻すと、「はい」と夫はうなずき、再び真顔になった。
「何か楽しみなことはありますか?」
私は妻のほうを向いて尋ねた。
「以前はボランティアで歌をうたったり、楽器を弾いたりしたのよ」と、妻。
それでは今は? という言葉を私は飲み込む。その質問は、「自分は孤独ではない、不幸ではない」と思っているはずの彼女を、傷つけるような気がしたからだ。