87歳でも年収2億円
渋沢の年収は年齢を重ねるごとに増大していきました。もともと武蔵国の血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に生まれた豪農出身の渋沢ですが、コミュニケーション力の高さと経営センスを買われて一橋家に仕官することになります。そうして武士に“転職”し、京都勤めとなった頃からは金運も開けていきます。
当初は、最低ランクの「奥口番」の仕事で、年収が「4石2人扶持」(約7石)。1石=1両=10万円とする幕末の労賃レートで計算すると、年収70万円。
厳しい数字ですが、これに加えて、物価の高い京都で暮らしていくための滞在手当が毎月「4両1分」(=約40万円)もらえました。
武士としてはさほど高給とはいえないまでも、それなりに稼げるようになった実感はあったと思われます。元治元年(1864年)の話でした。
勤務開始から2カ月後にはもう「奥口番」から「御徒士」に昇進が決まり、基本給が「8石2人扶持」(=約11石=約110万円)、京都滞在手当が毎月「6両」(=60万円)に上がります。基本給の数字は相変わらず低めで、京都滞在手当で食いつないだようですね。
渋沢の出世は続き、そのたびに待遇もジワジワと上がっていきます。徳川慶喜の弟・昭武に随行する形でパリに留学した渋沢ですが、帰国後は紆余曲折あって明治政府での仕事に就いています。
明治2年(1869年)に大蔵省租税司正として勤務開始した時には、月給が133円でした。当時の1円は現代の貨幣価値で約4000円に相当するので、月給53万円あまり。ボーナスなどを考えなくても、年収640万円ほどになっています。
明治6年には大蔵省を早くも辞めて、渋沢は民間の経済人・実業家として活動することになります。そして何百という起業を成功させた後の明治20年(1887年)の所得は9万7316円。現代の価値に換算すると約3億8900万円だったそうです。収入から各種経費を差し引いた数字を所得と呼ぶので、実際はもっと稼いでいたわけですね。
87歳になった昭和2年(1927年)も、所得は35万6000円。昭和初期の1円=現代の636円とすれば、約2.2億円です(当時の1円=2000円の説もあり、そちらを採用すれば7億円以上……)。
それは昼夜を問わず、生涯現役であり続けた彼の人生が生み出した巨額の価値だったといえるでしょう。
福沢諭吉に救われた北里柴三郎
令和6年(2024年)から刷新される新1000円札の肖像は、医学研究者の野口英世から、日本の医療水準を大きく上げ、北里研究所などを設立した医師の北里柴三郎に。
そして新5000円札は、文学者の樋口一葉から、女子高等教育の実現に心血を注いだ津田梅子の肖像に変わります。
二人とも明治期の日本で偉業を成しましたが、そのキャリアと稼ぎ方からは、興味深い素顔が見えてきます。
明治16年(1883年)、北里柴三郎は東京大学医学部を卒業、内務省衛生局(厚生労働省の前身)に就職しています。この時の月給は70円。
当時の1円=現代の1万円とすれば月給70万円、ほかにもボーナスなどがありました。高給取りに見えますが、当時のエリート医師としてはこれでも“相場以下”だったそうですよ。
明治中期の日本、とくに地方では、最先端の西洋医学の教育を受けた医師が不足していました。新卒でも地方に行けば、いきなり月給200円(=現代の200万円)の病院長になれるケースもあったようです。
しかし、研究熱心な北里は高い収入より、設備のよい東京の衛生局でコレラの研究を続けることを重視したのです。
のちに北里はドイツに医学留学し、細菌学の権威であるコッホ博士の薫陶を受けました。破傷風の療法を開発するなどの業績もあげて帰国、衛生局に復帰しますが、北里を妬んだ先輩や同僚たちから冷遇される日々が続きました。
帰国後は半年も放置されたあげく、やっと下った辞令では、月給は10円昇給しただけの80円と告げられました(同世代の後藤新平が衛生局長に就任し、月給として200円強をもらっていた時期の話)。
そこに救いの手を差しのべたのが、『学問のすゝめ』の成功で大富豪になっていた福沢諭吉です。彼は北里と出会う前、慶應義塾大学に医学部創設を試みるも失敗していました。ゆえに北里が行っていた研究の重要性を即座に理解し、援助を開始してくれたのです。