「何でもあり」の格闘技大会・UFCの開催

彼らグレイシー一族が北米やアジア、ロシアなど、ブラジル以外の大陸の格闘技関係者の前に出てきたのは1993年、第1回UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ=当時の日本ではアルティメット大会という名で報道されていた)のオクタゴンという闘技場であった。

選手が戦っているオクタゴンは金網で囲まれている。反則は「噛みつき」と「眼球攻撃」など僅か数項目で、あとは何でもありだ(ポルトガル語でバーリトゥードという言葉は「何でもあり」のこと)。

当時の格闘技界では一流ボクサーや空手家が素手で顔面を殴ったら死ぬと思われていたし、絞技も異様に怖れられていた。だからそれまで日本で様々戦われた異種格闘技戦では互いに譲らぬルール協議が微に入り細に穿つものとなり、両選手ともいいところなく引き分けるといった試合に堕していた。

プロレスのリングになるとさらに「フィクストファイト」という大きなハードルがあった。八百長である。だから「誰が一番強いのか」「どの格闘技が一番強いのか」という二つの命題は永遠に解けないものだと思っていた。

戦うの2人の格闘家
写真=iStock.com/PeopleImages
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“ガチ”で誰が一番強いのかを決める

しかしVHSビデオで観たその第1回アルティメット大会は“ルール無し”という誰にも文句が言えぬ状況を作ってこの答を出そうとしていた。さらに私から見ても明らかにフィクストファイトではなかった。

素手で戦う選手たちは、馬乗りになっても殴り、相手が失神しても殴り、歯が折れ、流血しても殴り続けた。そしてなにより、戦う彼らの表情にはリアルファイトをしている者だけが見せるたかぶりと怯え、矛盾する二つがあった。

優勝者ホイス・グレイシーは本当に強いのか

しかしグレイシー柔術を名乗って優勝したホイス・グレイシーの実力には私は半信半疑だった。

ほんの数年前まで大学柔道部に所属していた当時の私はホイスの戦い方を「これは柔道そのものではないか」と思ったからである。

なにしろ結果だけ見ればすべて講道館柔道の技術で勝っていた。しかもホイスは体幹が弱く「柔道の一流選手が出たら簡単に勝てるだろう」と思った。おそらくつかんで投げて絞め落として終わりだろうと。その感覚は柔道だけではなく、空手やレスリング、ボクシング、キックボクシングなど、何らかの格闘技を修行した者はみな強く感じていた。