もともと「日本人の主食」として薄利多売を国から定められ、それゆえに許可制で守られてきた米穀店にとって、これは大打撃だった。コメの低価格は維持されたまま、販路の開拓や価格交渉など慣れない仕事が加わったのだ。

しかも、コメの年間消費量は、1962年度をピークに減少し続けている。1962年度にはひとりが1年で118.3キロのコメを食べていたのに、2000年には64.6キロとほぼ半減している。

父親の体調が悪化し、次第に後継者として店を経営するようになった大曽根も、常々、商売が難しくなっていることを感じていたという。

インタビューに応じる大曽根克治さん
筆者撮影
インタビューに応じる大曽根克治さん

「正直に言って自分も毎日コメを食べるわけじゃないし、市場がどんどん小さくなっているなと感じていました。父親が作った会社だから、僕が守らないとっていう意識はあったけど、店の売り上げも年々落ちていて、これからどうしよう、困ったなと思いながら仕事をしていましたね」

「倒産するなら1日でも早い方がいい」

2011年、父親が亡くなった。そのタイミングで「清算しようか」という思いがよぎった。しかしこの時、一緒に松栄米穀で働いていた弟が「自分は外で働くから、もうちょっと続けたら?」と言ってきた。恐らく、弟にも「父親の店を守りたい」という想いがあったのだろう。

「そこまで言うなら」と、店を続けることに決めた。ただ、「このままでは潰れる」という危機感もあり、ある日、フェイスブックで赤裸々に現状を明かし、「皆さん、コメを買ってもらえませんか?」と綴った。すると、小中高時代を共に過ごした暁星の仲間を中心に、友人、知人たちが手を差し伸べてくれた。業務用のコメの販売先を、いくつも紹介してくれたのだ。

それでいくらか経営は持ち直し、墜落寸前だった松栄米穀はなんとか低空飛行を続けられるようになった。しかし、減り続けるコメの需要に対しては、焼け石に水だった。

2018年3月、ついに金融機関から運営資金の融資が受けられなくなり、弁護士に相談に行くと「倒産するなら1日でも早い方がいい」とアドバイスを受けた。倒産をするにも費用がかかるため、本当に危機的状況に陥ってからだと倒産するのも難しくなるという話だった。

それまでぼんやりとしていた「倒産」の文字が、急にハッキリと浮かび上がった。その時、ホッとする気持ちもあったと打ち明ける。

「親父の店を残せなかったという悔しさはあります。でも、コメ屋は利益が少ないうえに市場が縮小して、これからどうしようってずっと悩んでいたから、やりきったっていう想いもありましたね。これでようやく一区切りついたと」