視聴者が求める「期待どおりの感情」

「視聴者は期待どおりの感情になれなければ満足しない」――。あるベテラン放送作家から、筆者はそう聞いたことがある。テレビの黎明れいめい期から黄金時代にかけての雰囲気を知る彼は、さらにこう付け加えた。

「わからない言葉や表現が一瞬でもはさまったら、視聴者はそこで興味を失ってチャンネルを変えてしまう。わからないことを見つけて喜ぶのは頭がよい人だけだ」

こうしてワイドショーの需要と供給が成り立っている。制作側と視聴者のどちらもが、「もっともっと」とわかりやすさと親しみやすさと喜怒哀楽を求める。論理よりも感情で動いてしまいがちなのは人間のいとおしさであると同時に弱点でもあるが、ワイドショーはこの弱点をカネに変えるビジネスなのだ。

テレビ離れの一因であっても

ワイドショーが新型コロナウイルス感染症について怪しい医療情報や感情的な意見を放送するのは、パンデミックを国や医療従事者のせいにしたい視聴者の期待に応えるためだ。国や医療従事者を批判している専門家をスタジオに呼んで意見を語らせ、司会者はさらに視聴者の感情を煽る。視聴者は込み入った説明を嫌い、期待どおりでわかりやすい極端な情報を求める。

スタジオに呼ばれた専門家や、素人の「コメンテーター」は、どうすれば視聴者の耳目を集められるかを次第に学習し、極端な発言を増やしていく。しかも求められている役割を自覚して個性を際立たせようとする。視聴者はますます、喜怒哀楽を刺激されて満足する。

桂小金治の怒りや涙を固唾を飲んで見守っていた、1960年代の視聴者のリテラシーを、ワイドショーの制作者はいまだに基準にしているのではないかとさえ感じる。そうした制作態度は若年層を中心とした現在進行中のテレビ離れに間違いなく加担しているが、それでもまだ5~10%の視聴率を獲得できている。視聴率が確保されスポンサーが付くかぎり、ワイドショーはなくならず、基本的な制作方針も変化しない。