前年の文政七年(一八二四)六月八日、国元で藩主帰国に関する掛かりが任命された。八月十日には、江戸でも掛かりが決まる。国元でも江戸でも、家老が帰国事務の責任者だった。
その後、国元に連れていく家臣の名や道中の行程が発表され、帰国許可が下りるのを待つことになる。
御供する藩士の選抜や宿泊場所の手配だけではない。藩主の持ち物などを運ぶ人足や馬の確保、その日当や駄賃の計算など、多岐にわたる事務処理も事前に済ませておかなければならなかった。そのため、佐竹家などは一年以上も前から準備したのである。
最後の広島藩主・浅野茂勲の証言
ありし日の参勤交代について、当事者たる藩主の証言が残されている。最後の広島藩主である浅野茂勲(明治に入って長勲と改名)の証言だ。
浅野は天保十三年(一八四二)生まれで、二十代後半で明治維新を迎える。維新後は貴族院議員などの要職を歴任して昭和十二年(一九三七)に没する。その晩年に、江戸の社会風俗の記録者として知られる三田村鳶魚の質問に答える形で、大名時代の日常を語った。その回顧録に、参勤交代時の道中の様子が収められている。
まずは、食事についての証言である。
略式と申しても、道具はいろいろ持って行っておりますから、食事はその土地のものを食うには相違ないが、台所があって料理番が仕立てる。(中略)食物は台所奉行がまず食味をします。それから近習の者が毒味をするので、これは食味がまずくても加減が悪うても一言もいえない。何か嫌いのものが出た為に、目を白黒して呑み込んだという話もある。なかなか面倒なものです。道中でもやはり食事は前日に伺いますが、その晩のことは前日というわけに往かないから、着いてからきめることになります。(浅野長勲「大名の日常生活」柴田宵曲編『幕末の武家』青蛙房)
参勤交代には、藩主専任の料理番も同行していた。宿泊所である宿場の本陣に行列が到着すると、料理番が台所に入り、使い慣れた料理道具で調理する。なぜ専任の料理番に調理させたかと言えば、藩主の毒殺を防ぐためであった。
漬物のみならず、漬物石も……
料理番による調理が終わると、藩主の食事の責任者である台所奉行がまず毒味をする。料理番のみならず、台所奉行も同行していたことがわかる。実際に殿様の御前に出される際には、さらに毒見役のチェックが入る。
二重のチェックを受けた後、藩主はようやく箸を付けることができた。城中で食事を取る時とまったく同じチェック体制が取られていたのだ。
本陣の台所に持ち込んだのは、料理道具だけではない。浅野家の場合は違ったのかもしれないが、藩主の御膳にのぼる米まで持ち運ぶ場合もあった。米のほか、炊事に使う水や塩・醤油なども樽に入れて運んでいた。