ふて腐れていた佐藤に、当時の上司の岩佐英史(現・中部圏統括本部長)は、「そんなにイライラするな。ドイツのビール工場でも視察してこい」と諭した。この視察で、佐藤は「人生が変わった」。

一週間ほどの日程で、国営の大型醸造所や小さなビール工房を巡った佐藤は、ミュンヘンでハンス・ボルフィンガーという有名なビール職人に出会う。

「どうしたら美味しいビールをつくれるんですか」と尋ねた佐藤に、ハンスは静かにこう応じた。

「つくるんじゃない。醸し出すんだ」

この言葉を聞いた途端、佐藤は肩の力が抜けて「楽になった」という。

「それまでは、自分でつくらなければいけないと思い込んでいました。そうではなくて、環境を整えて自然の素材に任せればいいと気がついたわけです」

ドイツ視察には、社内の者たちに加え、社外のクリエーターたちも数人同行していた。佐藤は、こうした仲間たちと意見を戦わせる大切さも学ぶ。今では「壁打ち」と称して、佐藤の商品開発には不可欠な手法となっている。

その後、佐藤は、自分中心ではなく、チームによる仕事へと、手法を改めてゆく。

しかし、思いどおりのチームをつくることは、会社組織のなかでは至難の業である。まして、キリンビールは「組織の三菱」の一員として、お堅いことで知られている。社内の壁を取り除き、社外からも人を招いて「フラットなチーム」をつくることは、容易ではなかった。

実際、佐藤はドイツから帰国後、数年してもプレミアムビール「ブラウマイスター」ただ一つの商品しか、生み出せなかった。それも、上司の岩佐が身体を張って、やっと経営会議を通してくれたものだ。

97年、佐藤は新天地を求め、飲料担当のキリンビバレッジに移籍する。快進撃が始まるのはそれからだ。

07年、佐藤はキリンビールの商品開発部門に帰ってくる。今では、佐藤流の「チームづくり」が違和感なく受け入れられるまでになった。ドイツ視察で佐藤が変わり、佐藤の成功を見てキリンビールも変わったということだろう。

年明け初日、佐藤が部下に配った手書きの檄文の中に、次の一行があった。

「日本に於る『キリンの価値』を貯め続ける」。

そのために、佐藤は何回の「この指止まれ」を繰り出すのだろうか。

(文中敬称略)

※すべて雑誌掲載当時

(小原孝博=撮影)