「例えば、農林水産省や国土交通省に入って、外務省に出向するという道もあったでしょう。ただ、アフリカでは他商社駐在員の人もいて、彼らと一緒に生活する中で、自分には民間の方が合っているなと思うようになりました」

そこで進路を商社に絞る。最終的には87年、総合商社のトーメン(現・豊田通商)に入社した。

1985年のポートスーダン。エチオピア難民のキャンプ。
写真提供=豊田通商
1985年、中川さんはスーダンにあるエチオピア人の難民キャンプを訪れた

一度、サラリーマンを辞める

入社後、農薬・医薬品関連の事業部に配属された中川さんは、すぐにアフリカ行きのチャンスをつかむ。89年から3年間、コートジボアールの最大都市であるアビジャンに駐在し、ODA関連の業務に従事する。冒頭で触れたのはこのとき見たシーンである。

アフリカからいったん帰国して、97年からはフランス・パリに駐在した。4年ほど経ったころ、中川さんは思い切った行動に出る。サラリーマンを辞めて、ワクチン支援関連の個人会社を立ち上げたのだ。

1985年のエチオピア北部難民キャンプ
写真提供=豊田通商
1985年、エチオピア北部の難民キャンプで支援活動を行った

「学生の頃から、いつかは独立して、会社を運営したいなという考えがありました。そこでさまざまなことを商社で勉強させていただいて、チャンスがあったときに飛び出そうと」

取材に応じる中川興さん
取材に応じる中川さん(筆者撮影)

長年、海外で生活していたことも後押しとなった。フランス人やイタリア人など、同世代の仕事仲間も次々と独立や転職をしていた。欧米では当時からそれが当たり前で、個人を磨くためには不可欠だった。

新会社の経営はおおむね順調で、中川さんも仕事を楽しんでいたが、次第に物足りなさを感じるようになっていった。

「個人会社なので、自由だし、自分のやりたいことができます。また、個人だと案件あたりの利益は大きいから、サラリーマンよりも稼げます。ただ、大きな仕事はできず、小さな仕事を積み重ねるだけ。数億もの人たちを救ったり、世界初のサービスを生み出したり、という仕事はできません。そうすると、それがしたくなるんですよ。個人でチャラチャラお金をためて、はい、何億円儲かってよかったですね、ではなく、一流企業を説得して、大きなプロジェクトをやりたくなります。約5年間経営して、個人の限界を感じました」