書物主義とは形式主義のことである

タイトルにある「書物主義」にも触れておかないといけない。毛沢東は調査の重要性を訴えたが、文書調査に対しては異議を唱える。

書物に出ていることならなんでも正しいとおもうこうした心理は、文化の面でたちおくれた中国の農民のなかに、いまでもまだ残っている。不思議なことに、共産党の内部で問題を討議するときでも、口を開けば「本をもってこい」というものがいる。われわれが上級の指導機関の指示を正しいというのは、たんにそれが「上級の指導機関」からだされたものだからではけっしてなく、その「指示の内容」が闘争の客観的状況と主観的状況に合致しており、闘争に必要なものだからである。実際の状況にもとづいた討議や審議をせずに、ひたすら盲目的に指示を実行するという、こうした「上級」概念だけに立脚した形式主義的な態度はひじょうにまちがっている。(中略)上級の指示を盲目的に、うわべはまったく異議がないかのように実行するのは、上級の指示をほんとうに実行することではなくて、上級の指示に反対するか、あるいは上級の指示の実行をおこたるもっとも巧妙なやり方である。
(p.6)

つまり毛沢東が批判する「書物主義」とは「本」のことだけではなく、上からの命令や過去の慣習、あるいは教科書的な一般論に疑いなく従う形式主義的な態度のことである。

上位権限者から指示を受けたら「とりあえず文章で指示をください」と要求する場面は日本の役所でもよく見られる光景だが、形式主義は責任回避行動の結果であり、建設的な態度ではない。

ここで疑問を抱く人もいるだろう。書物を軽視し、現場を重視していては上の命令に背く党員が増え、一枚岩の党運営ができないのではないかという点だ。

しかし、あくまでも毛沢東が批判した書物主義は、党の世界観の枠内に収まる話である。

最高権限者は毛沢東であり、彼が決めたことは絶対で、党員はその線は越えてはならない。そのかわり枠内の具体的な解決策については、現場担当者自ら頭と足を使えと言っているのだ。

資本家にも、ごろつきにも話を聞く

この作品の最終章「調査の技法」には調査の仕方、とくに調査会での討論の技法について、かなり具体的に書いてある。

毛沢東は、さまざまな立場の人を集め、議論をさせることによって、現代でいう「集合知(コレクティブ・インテリジェンス)」をつくることを目指した。

毛沢東は、調査会に協力してもらう出席者の資格に言及している。

社会経済の状況をよく知っている人でなければならない。年齢からいえば、年寄りがいちばんよい。かれらはゆたかな経験をもっていて、ただ現状に明るいだけでなく、ことのいきさつも知っているからである。闘争経験のある若い人も出席させる必要がある。かれらは進歩的な思想をもち、するどい観察力をもっているからである。職業からいえば、労働者も、農民も、商人も、知識分子も出席させる必要があり、ときには兵士も出席させる必要があり、ごろつきも出席させる必要がある。
(p.18)

年齢、職業などできるだけバランスよく集めよ、ということだ。とくに注目したいのは「ごろつき」の意見も聞けという箇所である。

反社勢力を通じて、裏社会までを視野に入れないことには革命は実現できないという毛沢東のリアリズムが表れている。