後継者争いから生まれた「シーア派」と「スンナ派」

他方、ウマイヤ朝の側も権力の正当性を示すため、別の論理を考えました。カリフの地位は血統によるのではなく、神の啓示『コーラン』と、ムハンマド時代の慣習法(スンナ)を遵守することにあり、という主張です。これがスンナ派(スンニ派)の始まりで、アラブ世界ではイスラム教徒の多数派です。

イスラム化する前のイランには、ササン朝ペルシアという国がありました。ゾロアスター教(拝火教)を国教とし、ローマ帝国と互角に戦ってきた大国です。しかし内紛で疲弊したところでアラブ軍に攻め込まれ、崩壊しました。

最後の王ヤズデギルト3世はシルクロード経由で唐の長安に亡命し、そのまま亡くなります。この前後に多数のイラン人が唐へ亡命し、ゾロアスター教やキリスト教ネストリウス派(景教)を中国へ伝えました。彼らの一部はこちらも『世界史とつなげて学べ 超日本史』でも書いたように、日本にまで到達していた可能性があります。

聖徳太子伝説に「母が観音菩薩を受胎し、太子を産んだ」、「うまやの入り口で生まれた」、など聖書のキリスト降誕と同じモチーフが語られるのは、景教の影響と考えれば説明がつきます。

国難に爆発的なパワーを発揮するイラン人

さて、王統が途絶えたササン朝ですが、じつは唐に亡命したヤズデギルト3世の王女シャフルバヌーがアラブ軍の捕虜となり、アリーの子フサインの妃となったという伝承があります。カルバラーの戦いでウマイヤ家に殺された殉教者、イマーム・フセインです。ということは、シーア派の指導者(イマーム)たちはササン朝と血縁がつながっているということになります。

繁栄の頂点を極めながら、老木のように倒されたササン朝ペルシアの無念。その血を受け継ぎながら、イスラム世界の異端として弾圧を受け続けたシーア派のイマームたちの無念。イラン人がシーア派のイマームを礼賛するとき、その視線の向こうにはササン朝ペルシアの栄光を見ているのです。

ササン朝の国教だったゾロアスター教では、世界を光の神アフラ・マズダと闇の神アーリマンの闘争の場ととらえ、最終決戦で光の神が勝利して全人類を裁く(最後の審判)と説きます。シーア派では、このときお隠れになっている最後のイマームが再臨し、正義が実現すると考えます。

善悪二元論、殉教者の礼賛、最後の審判の待望――これらの思想はイラン人のメンタリティに深く刻み込まれ、とくに国難に際しては爆発的なパワーを発揮します。