そして生まれた「歴史的名場面」
いよいよ薬師丸ひろ子さんの撮影が始まり、薬師丸さんは、最初は静かに「うるわしの」と歌い出され、そして2節に入ると、歌は高揚し、最後はまさしく「絶唱」であった。監督の「カット」がかかっても、広いスタジオは深い沈黙に包まれたままであった。私の隣でモニターを見つめていた、若いスタッフたちが、目を真っ赤にしながら泣いていた。私も、胸が締めつけられながら、涙が溢れて止まらなかった。
吉田監督が、「薬師丸さんが体現する悲しみと、そこから立ち向かわなくてはいけないという力強さを歌から感じたので、もうドラマじゃなくなっているなって思いました。みんなそれぞれが何かを感じ振り返る時間になっていて、それを(朝ドラの尺の)15分の中でやることに勇気と迷いはありましたけど、さすが薬師丸さんだなって」と証言されている通り、その現場は、もはやドラマではなかった。
新型コロナウイルス感染症蔓延と、それに伴う収録中止、放映中止、10話分カットという、『エール』収録開始時には想定もしていない異常事態に直面し、収録再開後も、極限の感染対策で神経をすり減らす中で、それでも、良質のドラマを創り上げたいという、『エール』制作陣、一人ひとりの中に、薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」の歌は、深い深いところで響いたのだろうと思う。私は、収録直後、この場面は間違いなくNHK朝ドラ史上の名場面になるのではないかと確信したが、今回の放映で、ただの1秒もカットされることなく、1節、2節、すべてが歌われた薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」は、確かに、歴史的な「名場面」となった。
「死」から「復活」へという神学的メッセージ
薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」が持つ意味は、観た者それぞれにとって違うだろう。そもそも、「うるわしの白百合」という賛美歌は、イースター、復活を謳う歌である。戦争・死・暴力という「死」と「絶望」。それを悲しみながら、しかし、ただそこにとどまるのではなく、未来の平和・生・人間の尊厳という「いのち」と「希望」を願い、告げることの大切さ。そこには「死」から「復活」へという、神学的なメッセージが通奏低音のように流れている。
自分が作曲した歌に鼓舞され、予科練兵として戦地に赴き戦死した弘哉君の壊れたハーモニカを前にして、「音楽で人を戦争に駆り立てることが、ぼくの役目なのか」「若い人の命を奪うことが、ぼくの役目なのか」と自問しつつ、ついには「ぼくは、音楽が憎い」と呟く古山裕一。その絶望的な呟きに対する、見事な応答こそが、光子の「うるわしの白百合」なのではないか。本当の『エール』とは何かを、音楽の本当の力を、光子は、裕一や音、そして華、残された、これからの世代の未来を想って歌ったのではないか。否、「祈った」のではないだろうか。