なぜ立憲は議席を減らしたのか
もうひとつの分析は、まったく逆である。むしろ枝野氏の「野党共闘」が中途半端で、十分に機能しなかったというものだ。
枝野氏は野党第一党のリーダーとして、あるいは野党共闘の首相候補として、立憲、共産、社民、れいわの野党4党の共通公約や選挙協力といった「野党共闘」を主導する姿勢をまったくみせなかった。野党共闘はあくまでも山口二郎法政大教授らの市民連合の仲介に基づくものであり、立憲は一政党として加わっているにすぎないという半身の姿勢に終始したのである。
枝野氏の衆院選の目標は「立憲の議席増」であり「政権交代の実現」ではなかった。勝敗ラインとして「政権交代」を掲げなかったことがそれを物語っている。
野党第一党の党首は「政権選択の選挙」で過半数を獲得できなければ「敗北」と判定するのが二大政党政治の掟なのに、立憲が議席を伸ばすことをもって「勝利」と位置づけ、代表の座にとどまろうという腹づもりがにじんでいた。
その結果、野党候補の一本化は共産やれいわ新選組が一方的に譲歩する形で実現するケースが相次いだ。れいわの山本太郎代表が立憲側と事前調整をしたうえで出馬表明したものの、立憲の党内調整不足で地元が混乱して山本氏が自ら身を引いた東京8区は、その象徴である。
「冷たい野党共闘」を貫いた枝野氏
枝野氏は共産やれいわの候補者の応援に駆けつけず、「冷たい野党共闘」を貫いた。市民団体が東京・新宿で主催した選挙イベントで共産党の志位氏と同席しながら最後の写真撮影を拒否して立ち去ったのは、「野党共闘」の機運を盛り下げる決定的な場面だった。
一方、選挙最前線では、立憲と共産、れいわの「心の通った選挙協力」が数多く実現した。共産党の小池晃書記局長は香川1区で勝利した小川淳也氏と共に、れいわの山本代表は東京8区で因縁の深い吉田はるみ氏とともに街頭に立ち、枝野氏と対照的に「大人の対応」をみせた。
結局、野党共闘は立憲を一方的に利しただけで、共産やれいわには見返りがほとんどなかったといえるだろう。共産党の議席減は数多くの候補者をおろしたことと無縁ではない。れいわも山本氏が小選挙区に出馬していればさらに議席を伸ばした可能性がある。
今回の「野党共闘」は互いに誠意をみせあい結束を固める「本物の野党共闘」とはほど遠かった。自公の連立政権や選挙協力と比べると、きわめて未熟だったといっていい。
枝野氏が「冷たい野党共闘」に終始した最大の理由は、連合の反発であろう。立憲候補には連合の力を借りなければポスター貼りなどの選挙活動を十分にできない者もいる。連合と決別して共産とタッグを組むことは、選挙現場の実態からかけ離れたものだった。
野党共闘が共産アレルギーを刺激して惨敗したのか、それとも野党共闘が不十分だったのか——。枝野氏の後任を選ぶ代表選は「野党共闘」のあり方が最大の争点となるが、まずは今回の敗因分析をしっかりすることが必要だ。