不安の時代が炭治郎という無私の兄を創り出した
経済不況が長引き、ましてコロナ禍の中で真に金銭的に頼れるのは血族だけ、という状況が強くなった。銀行は雨の日に傘を取り上げ、自治体や国家は冷たく窓口で生活保護を門前払いする。こんにちほど、血族間の金融システムが重要である時代はないかもしれない。かといって自分の親は世代的に感覚が違いすぎ、「毒親」という言葉もある。価値観が違い過ぎて親は頼りにならない。そもそも親の世代も疲弊しているのだ。そういうときの命綱が兄弟姉妹の存在ではないか。
経済の萎縮は、伝統的な家族観を復活させる。窮地に立った時、結局頼れるのは疑似家族ではなく血族である、というのは古今東西の事実である。日本型疑似家族の最大のものであった企業体では、もはや非正規雇用が4割以上になり、同じ職場の雇用者を平気で切り捨てる。他者が寄り添って疑似家族を構成した要塞はもはや機能しがたくなっている。
疑似家族や共同体は不況下では信用できない。地域社会も高度な都市化および過疎によってズタズタになってきている。そのような時代に兄弟愛の物語が高らかにうたい上げられるのも必然といえる。
しかし最終的な最大の庇護者が、自治体や国家ではなく兄や姉、という時代もまた前近代への退行のようでそら寒い。そんな不安の時代が炭治郎という無私の兄を創り出したのか。