『鬼滅の刃』で描かれている兄弟愛は幻想である

よく妹が兄に懐く、というシチュエーションが一時期(今でも)流行ったが、その逆バージョンが『鬼滅』であろう。「お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん」とかわいい妹が兄になついてくるのではなく、正義感の強いかっこいいお兄ちゃんが「禰豆子禰豆子禰豆子」と妹になついてくるのが炭治郎である。実際の兄妹間では兄を「お兄ちゃん」と連呼したり、妹を名前で連呼したりはまずしない。少なくとも私のところでは、指示代名詞で呼ぶ。私は妹を「あれ」「おい」と呼ぶし、妹は「ねえ」「あの」とか呼ぶ。名前で呼ぶ関係ではない。

もし二人っきりになったら、気まずい沈黙が支配するだろう。私の妻や妹の夫がその場にいないと、妹と顔を合わせることができない。妹が何に興味を持っているのか分からず、よって何の話をしたらよいのかわからないからである。まさか自公連立や原子力潜水艦保有の是非を突然話し始めるわけにはいかない。

青春時代に何か後ろめたい経験があったわけではない。単に極端に疎遠なのだ。こういう兄や妹を持った読者が、鬼滅の描く兄弟(兄妹)愛に欠損した何かの代替を求めるのかもしれない。しかし、実際の兄弟はそんなものではない。無味乾燥の他者がそこにいるだけである。こういう殺伐とした時代背景が、ブラコン・シスコンの跋扈に繋がっているとみても、そうハズレではあるまい。

人々が被庇護欲に飢えているからこそ『鬼滅の刃』は成功した

かくいう私は、すでに述べたとおり妹がいるだけでなので、異様なほど姉に対する幻想が強い。『新世紀エヴァンゲリオン』の葛城ミサトとか、『カウボーイビバップ』のフェイとか、『ダーティペア』のケイみたいな姉御肌で活発な姉が欲しい欲しい欲しいと妄想している。

頼みもしないのに下宿に押しかけて片付けをしてくれたり、「カップ麺ばっか食べてたら体壊すでしょ」と言って料理を作ってくれたり、「バイトだけじゃキツイでしょ。お姉ちゃんボーナス入ったからね」と小遣いをくれたり、「あんな女と付き合ってたら弟君が心配だよ。お姉ちゃんがもっといい彼女を紹介してあげる」と自分の彼女を厳しく査定してくれるような姉が欲しい。しかし現実の姉というものはそんなものではないということも分かっている。

逆に、それが兄であってもよい。学歴が高く実業家として成功しており、私を関連企業に無条件であっせん就職させてくれるような弟想いの兄が欲しい欲しい欲しいと妄想するときがある。

兄が保有する高級車を買い替えるとき、私にタダで譲ってほしい。できれば自動車税も保険代も全部兄が払ってほしい。面倒な行政や法的処理を兄の顧問弁護士に全部代行してほしい。兄の保有する賃貸マンションにタダで住まわせてほしい。ダメな弟を護ってほしい。ゴッホでいうところのテオの存在が欲しい(テオは弟だが)。そんな兄がいたらどんなによいだろうか。

ここまで考えて、私も相当被庇護欲が強烈だなと自覚するに至った。こういう被庇護欲に飢えている長男や長女等々が増えているからこそ、『鬼滅』は成功したのだろう。