確かにそういうことは起こりうるかもしれない。だがこれは秋篠宮だけの問題ではなく、皇室と国民すべてが考えるべき問題である。
すぐ忘れてしまうのでは国民的議論は進まない
そういうときのために、女系天皇にまで踏み込んだ国民的議論が必要だと思うのだが、元々女性が天皇になる道を閉ざしているこの国では、英国史研究家の君塚直隆が朝日新聞(10月2日付)でいっているように、
「もし日本国民が皇室の存在を本当に大事だと考えているならば、皇位継承などの改革を求める声がもっと上がっているはずです」
小姑のように、結婚問題には口を出し、次の天皇は愛子さんでいいじゃないと、無責任にいい放つだけ。騒ぎが終われば皇室の存在をすぐ忘れてしまう。
元皇室担当記者だった成城大学教授の森暢平はサンデー毎日(10月17日号)でこう書いている。
「私たちは答えのない時代を生きている。そのような時代の天皇制は社会の統合ではなく、その分断を顕在化させる象徴になっている。眞子さま騒動が示したものは、統合しえない日本、分断される日本である」
天皇をはじめとする皇族方は国民のことを日々考えてくれているのだろうが、国民はそうではあるまい。戦後76年、象徴天皇制とはどうあるべきなのかを、今一度立ち止まって考える時期に来ているのではないか。私はそう思っている。
秋篠宮眞子さんをめぐる過剰な報道合戦が、そのきっかけになれば、無駄ではなかったのかもしれない。(文中一部敬称略)