アメリカでも一部のトランプ支持の機関を除くテレビ、新聞などでは、歴史は人種平等へと進むものであるかのように説く。しかしその過程は、今までに特権を握っていたものが抵抗するので一直線ではない。

つまり平等への動きが正しく、そうでなければ歴史の巻き戻しであるかのように報道されるが、これから少数派になると予想されるグループは、自己の利益を守るため、この流れを押しとどめるためにあらゆる策を講じ始める。例えば、フォックス・テレビなどの限られた、しかし熱烈なトランプ支持者のいる報道機関を通じて、差別することで受けている利益を守るために、必死で歴史の流れに抵抗しようとする。

そもそもアメリカは移民によって成立した国であり、人種問題とは実は昔到着した移民が、最近来た(ないし将来来る)移民を排斥することにほかならない。

それに比べると、日本は島国で、自然立地がある程度、日本を外国からの侵略から守ってくれてきた。人種的にも比較的斉一な日本人は、外国からかなり独立して生活してきた民族である。そこで日本は、アメリカの人種差別を対岸の火事のように傍観する傾向にある。

しかし、確かに日本には深刻な人種差別問題はないが、男女性差別の問題がある。明石氏からトランプ勝利の意味を伺ったランチの場所は、奇しくも当時男性以外の正会員を認めないクラブであった。

夫婦別姓を認めない最高裁は男ばかり

ここで、なぜ男女差別問題の解決が必要かをまず考えてみよう。

人間として、女性として生まれてきた本人にとっては、平等な取り扱いを受けるのは生きがいのある人生を送るために当然のことである。

社会全体から見ても、男性一本やりの考え方でなく、物事の判断に異なった、多様性のある見方が必要である。新型コロナウイルスに対する対応で比較的成功している国・地域に見出されるのは、ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン、台湾の蔡英文、ドイツのアンゲラ・メルケルなど、女性の指導者が多いことである。女性のほうが面子にこだわらず、きめ細かい配慮が可能で、温かいコミュニケーションが取れると言われている。女性からの視点が加わり、多様性のある女性の指導力によって、社会に対する新しい視点が良い結果を生むことになるであろう。

さて、21年6月23日の最高裁判所の判決によると、夫婦に法的な別姓を認めない現民法等の規定は、「両性の本質的平等」を定めた憲法24条に違反しないという。姓名の規定は日本の伝統や国民感情などの諸要因を踏まえた総合的判断なので、国会の立法判断に委ねられてよい領域だから、憲法の人権問題ではないというのが多数意見である。

しかし、夫婦が別姓を認められないと、活躍する女性にとっては職業上不便であり、経済的損失も伴う。そのために結婚を控えたりすれば、一層の人間的苦痛も加わる。どう考えてもこの判決はおかしいと思う。