極寒の地では食わず嫌いは死を招く

天明7年(1787年)7月18日にアムチトカを出航し、1400露里を越えて翌8月23日、カムチャツカ(の一端)に到着した。五、六十あまりの人家があった。磯辺にはパラッカといって、布でかやのように作った日除けを張ってこの土地に勤務するロシア人の妻子がヤゴデという草の実を採っていた。光太夫は郡官の家に泊めてもらい、他の8人は郡官の書役の家に泊められそれぞれ食物を支給された。到着した夜はチェブチャという干し魚と、白酒のような汁にトラヴァ(草の名。不詳)の実をいれたものを錫の鉢に盛り、食べるためにクマデのようなもの(フォーク)と小刀、大サジを与えてくれた。この2品と麦の焼き餅(パンのこと)はロシア人が日常的に食べるものであった。

宿の老女が朝と夕方に小さな桶をもって牛小屋のなかに入るので不審に思って磯吉が何をしているのかとそっと様子をみると汚い小屋にいる1頭の牛から1升5合ほども乳を絞り取るのを見て「あの白いあまい汁はきたならしいところからとってくる」としきりに言いふらしたのでその後誰も「動物関連のものは何も口にしない」といってそれらはみんな残してしまうようになった。

しかしここに5カ月ほど逗留しているうちに麦粉は食べつくし魚の干物も底をついた。このような食料不足になっているうちに与惣松と勘太郎と藤蔵があいついで股から足まで青黒く腫れあがらせ歯茎が腐って死ぬ病に倒れた。

郡官の属吏は「あなたたちは意味もなく乳や牛肉を食べないが、これから飢饉になっていくのにああいうものを食べて体力をつけないと季節をこえられない」と説教し、それ以降磯吉たちみんなは動物のものも食べるようになった。

長く辛い絶望にかいま見える希望の旅の片鱗を体験した

5月になり川の氷がなくなるとバキリチイ(蝦夷の方言でコモロ、越後では糸魚、イトヨリダイ)の小魚が川の色が変わってしまうくらい押し寄せてきた。網でとって水煮にして食べると美味なること例えようがなかったという。これらが少なくなると今度はチェブチャという魚が遡行してきた。魚とりは主に女の仕事でこれも網で1日で3、400尾はすくいあげた。やがてこれが去ると大きな鮭がもみあうように鰭をひからせて遡行してくるのである。

天明8年(1788年)6月15日、光太夫たちはカピタン(下郡官)のチモフェイ・オシーポヴィチ・ホトケーヴィチに連れられてその地をはなれチギリというところにむかった。そのときの船は丸木をくりぬいたものでそこに光太夫ら日本の漂流民と、ロシア人15人が3、4隻に分乗した。

チギリからオホーツクへはさらに乗船者が増えたので、400石ほどの帆船になった。しかしこの人数にしては積載食料が足りず、なんとか口にできるのは水ぐらいで一度チェレムチャ(松前ではアイバカマという行者ニンニクに似た植物)の塩漬けだけが出てきたので一同大いに困って、脱走しようかという話が出てくる頃にやっと目的地のオホーツクに着いた。

しかし、この残された6人の日本人漂流者は、これで無事帰還というわけではない。むしろ位置としては日本よりさらに遠のいてしまったのである。これからまだ数年、彼らの帰郷への長く辛い絶望と慟哭、ときおりすらりとかいま見える希望が織りなす闘いがはじまる。

我々はロシアをいく漂流民、とりわけ日本人の殆どの人が体感したことのない零下50度60度などというシベリア原野への流浪の旅の片鱗をほんの2カ月間だが、生身で体験したのである。