流木から船を造り、カムチャツカへ
しかしこの想像を絶する気象変化の激しい島も、慣れてしまうと変化というのはそれだけのことで、結局はなんの希望もない打ち捨てられた絶望の島なのであった。我々はたった10日間という短い期間なので毎日あちらこちらに出向いて忙しかったが、それは(何もおきなければ)コールドベイからの迎えの飛行機がやってくることになっているからである。でも必ず迎えの飛行機がやってくるとは実はまだ何の保証もない。
それでも相変わらず「スパゲティのマヨネーズと醤油かけ。コンビーフを添えて」が基本のめしが続いているのだからすまないなあ、と思うようになった。買い物を頼まれたぼくがいまひたすら気にいっているのだから主食はそれだけであとはステーキなどを個人的に焼いている。ぼくはデカナベに毎晩1キロのスパゲティを茹でているだけだった。それを食うと眠くなるまでウイスキーを飲んでおしまい。夕食が単調だからだろうか、夜はあきてしまってウイスキーになるのだった。
光太夫たちはこのなにもない島に4年間いた。そのあいだに7人の乗組員が壊血病などで病死している。この島に漂着する前にすでに1人亡くしているので神昌丸の乗組員は9人になっていた。
光太夫らはときどき流木が独特の潮の流れを作っている湾にでかけている。我々が米軍から貰った地図にセントマカリオウス湾というのがあり、光太夫らが書いた簡単な地図とそこが一致する。
行ってみると本当にそこは夥しい数の立派な流木が漂着していた。光太夫らの神昌丸が漂着してきた方向と一致する。
我々はそこにグイと突き出た岬の先端に行ってケルン(積み上げた石)をつくり「望郷岬」と名付けた。そっちの方向が日本なのだ。しかしそこはやがて「挑み岬」というふうに変えてよぶことになった。
光太夫らが漂着して3年目に、ロシアから来ているニビヂモフらの毛皮買い付け人が故国に帰還する船がやってくることになっていたけれど、この島は果てしなく恐ろしくそして残酷なのであった。ロシアから迎えにきた船は湾内に入ると荒波に翻弄されて転覆。ふたつに割れてしまう。
絶望したニビヂモフはその絶望を怒りに変えて、光太夫らに話をもちかけたらしい。
「セントマカリオウス湾に堆積している夥しい流木を使って新しい船を一緒につくろうではないか。海峡を越えて向かいにあるカムチャツカまで渡ればあとは地続きなので何とでもなる。協力してそこまで脱出しないか」
それは光太夫たちにとっても非常に魅力的な話だった。ロシア人25人に光太夫ら日本人漂流民。それに地元のアレウト人も船建造の手伝いに加わってくれた。
『北槎聞略』をベースに書かれた井上靖の『おろしや国酔夢譚』(文春文庫)には、この底無し沼のように鬱屈した島で、光太夫らが漂着以降はじめての希望に満ちて積極的な計画とその仕事ぶりについて邁進するさまをこう書いている。
「ロシア人たちは破船した帆船の船具の収容に取りかかり、日本の漂民たちは潮に半身を埋めたまま腐りつつある神昌丸の船体から古釘を抜きとる作業に取りかかった。そうした仕事が終ると、あとは全員が手分けして周囲七里の島の海岸線を経廻って漂木という漂木を集めた。島には木らしい木はなかったので、船材は専ら漂木に頼る以外仕方なかった」
船の材料集めが終わったのは9月のはじめで、ただちに造船仕事を開始して冬の間は地下の穴蔵住居にもぐっての作業が続けられ、船が竣工に近づいたのは翌年6月のおわりであった――とあるので流木から船造りに要した期間はたっぷり10カ月かかっていたのだ。
『北槎聞略』によると、積載量600石ほどの船が完成した。ロシア人25人、日本人9人が乗船し、ラッコ、アザラシ、トドの皮、食肉としての干した魚、干し雁などを積み込んだ。