「ひたすら話を聞いて肯定する」は大間違い

共感に対する誤解のひとつに、誰かが話している時は途中でそれをさえぎらず、ひたすら頷きながら肯定してあげること、というのがある。

見当ちがいもはなはだしい。そんなものは共感ではなく、ただの感情労働にすぎない。話を聞く側も、くたびれてしまう。耐え忍んだ結果、堪忍袋の緒が切れて爆発するか、爆発しなかったとしても苛立ちがおさまらず、二度とその人と会う気が起きなくなってしまうだろう。聞いてもらった側だって、一方的に自分の感情をぶちまけた印象だけが残り、あとで気まずい思いをするのが関の山だ。いずれにせよ、ともに不愉快な記憶だけが残ることになる。

私がもっと共感してあげられたら、よかったのだろうか。私がその人の境遇や苦しみに正しく共感してあげることができなかったから、不満を募らせたのだろうか。そんなふうにあとで後悔しないように我慢をしても、すぐに限界がくる。人間は、どんな感情労働にも表情ひとつ変えないAIとはちがう。相手のために耐え続けた挙げ句、自分が先に倒れてしまっては意味がない。具体的な事例をひとつみてみよう。

ある職場に、Aという男性がいた。彼には、自分の話をすることを極端に嫌う二〇年来の友人がいる。その友人は、幼い時から苦労のし通しだった。きょうだいとの折り合いも悪く、今でも顔を合わせるのを互いに避けるほどだという。Aはその事実を知っていたが、友人はどんなに胃腸の調子を悪くしても、円形脱毛症になっても、ひとりで悩んでいるばかりで、誰にもそのことを言わなかった。

悩み
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頼れるものは酒だけという気の毒な友人を見かねたAは、自分は下戸であるにもかかわらず彼を飲みに誘ったり、週末に映画に誘ったりした。けれども、Aがどんなに意を尽くしても友人は胸の内を明かそうとしない。そんな彼をAは恨めしいとさえ思ったが、その都度じっと我慢した。

人に共感することで自分の問題に気づく

そしてその日もAが酒の席で友人の悩みを聞き出そうとしたが、いつもとちがったのは、友人が突如として癇癪を起こしたことだ。彼は「酒を飲んだくらいで解決する悩みだったら、とっくに話しているさ!」と声を荒らげた。それを聞いたAはカッとなり、席を蹴って家に帰ってしまった。自ら境遇を変えようとせず、耐えるしか能のない友人を情けなく思い、また、人の誠意を無下にすることにも腹が立った。

この話を聞いた私は、Aに対し、「あなたのお友だちに対する誠実な思いが伝わってきます」と言った。すると、彼は「こうしている間にも、彼が死んでしまうのではないかと思うと、居ても立ってもいられなくて、つい、しつこくしたり、強い言葉を投げたりしてしまったのです」と言って、涙ぐんだ。

私のちょっとした言葉にAが胸を詰まらせて、心の内をさらけ出したのは、べつに私が魔法をかけたためではない。私はただ、Aの話にじっと耳を傾け、それから彼の気持ちを推し量る言葉を、私が思った通りに口にしただけだ。しかし、それによって彼が私に心を開いたことはまちがいない。そしてAは、続けて自分自身のことを打ち明け始めた。

Aもまた、かつて、とても苦しい生活を強いられていたという。自分の実家と妻の実家の両方の面倒を見なければならない立場にあり、それが自分の宿命なのだと考えていた。だが、重すぎる負担に耐え切れず、とうとう数年前のある日、家族の誰にも行き先を告げず姿をくらました。誰も足を踏み入れないような僻地で二カ月間過ごした後、家に戻ったが、もう以前の彼と同じではなかった。

「今までと同じ生き方はしない」と心に決めると、以後、自分が負担に思うことは誰からの頼みであってもきっぱりと断り、気ままな生活を送っている。そのほうが、自分はもちろんのこと、周りの人たちにとってもずっとましな生き方だと思ったからだ。あの二カ月がなければ、今ごろ自分は死んでいたにちがいない。それが、彼自身の経験したことだ。

彼は、平静を装いながら自分をガチガチに押さえ込んでいる友人を見ると、彼が死んでしまうのではないかと不安を口にした。友人に、数年前の自分の姿を重ね合わせて考えてしまうのだ。彼にもしものことがあったら、それが予測できたのに助けられなかった、という罪悪感で苦しむだろうとも語った。Aが話し始めた友人についての話は、いつしか彼自身の過去の話へと変わっていった。梅雨時の雨で水かさを増した谷川のように、彼の話は尽きることがなかった。

彼は、友人の話をしながら、その苦しみに共感しようと努力するうちに、自分自身と向き合うことになったのだ。彼は、かつての苦しかった自分に共感して涙を流し、気持ちが軽くなったようだった。

それ以降、彼はその友人と会っても焦燥感にかられることはなく、腹が立つことも少なくなったという。友人には彼なりに生きるペースがあるのだろう、と受け入れることができるようになった。友人は自分の真心をわかってくれているはずなので、心の整理がついたらいつか打ち明けてくれるだろうと鷹揚おうように構えることができるようになった。友人に同情する気持ちと、かつての自分を不憫に思う気持ちとの区別がつかず、混乱をきたしていたかつての自分はもういない。