私たちはごく少ない事例を一般論にしがち
また別の可能性として、相談者の「ただの一般論」という意図自体は伝わったものの、その上であえて反論されたということもありうる。たとえ部外者から見れば問題なさそうに見える一般論でも、自分の職業や属性にそういうイメージを持たれると困る当事者としては、「みんながみんなそうじゃない」とか「そうじゃない人もいる」などと言いたくなるかもしれない。
いずれにしても、「○○は××」という形の文の意味は、「すべての○○」とか「たいていの○○」といった「大きな主語」になりがちだ。実のところ、私たちが何かものを言うときに大きな主語を避けるのは、かなり難しい。そもそも、私たち人間のものの見方の特性として、「ごく少ない事例にあてはまることをすぐに一般論や法則性に広げてしまう」というものがあるからだ。
こういった特性自体は、必ずしも悪いものではない。たとえば、何かをして危ない目に遭ったときに「これは危険な行為だ」と認識して二度としないようにするといった「広げ方」は、人間の生存に大きな役割を果たしていると言える。
しかし、この「一般論に広げやすい」という特性が偏見を生み出していることは間違いないし、人がそれを不用意に言葉にすることで、憎しみや争いといった不幸が生まれていることも事実だ。とはいえ、「自分の思ったことを言わない」とか「ただ黙り込む」というのも得策ではない。いったい、どうすればいいのだろうか?
根拠とする事例に戻って考えよう
私自身もたいした解決策は持っていないのだが、少なくとも「一般論や法則性を語る前に、その根拠となった事例に戻って考えてみる」というのは有効かもしれないと思っている。
この相談の例で言えば、相談者自身が、なぜ自分は「言語学者は、実際に誰も言わないような変な文ばかり研究している」という一般論を導き出すに至ったのだろう、と考えるということだ。
そこにはおそらく、「とある(/数人の)言語学者が書いたものを読んだら、実際に誰も言わないような変な文が見受けられた」といった「いくつかの事例の観察」があるだろう。もしそういった事例がごく少数であることに気づいたら、もしかすると相談者も「わざわざ声を大にして言うようなことではないな」と思い直すかもしれない。