「働く場所」ができると、小さな「日常」が再び生まれる

福島復興給食センターの運用が始まったのは2015年6月1日。同センターは9828平方メートルの敷地に建つ二階建ての建物で、仕込みから調理、搬送までが完全分業で行なわれる。約600人分の味噌汁を一度に作れる巨大電気釜、フライヤーや魚焼き機、炊飯器など、オール電化の全自動調理機を備えた最新の設備となっている。

この建物の2階の渡り廊下には、今も復興給食センターの試験運用が始まった日の記念写真が飾られている。日本ゼネラルフード本社の社長と鳥藤本店の重役を含め、約100名のスタッフが一堂に会したものだ。センターの従業員は真っ白な制服、食堂のスタッフはスカーフを巻いた姿で写っている。みな笑顔だ。6割が女性でいわき市の在住者が最も多いが、避難生活を送る双葉町や大熊町の出身者も10人以上いる。

給食センターの設立から責任者を務め続けてきた渋谷はこの写真を見る度、そのときの喜びが胸に甦ってくる。

初めて大熊町を訪れたとき、「こんな誰もいない場所で給食センターなどできないのではないか」と不安だった。だが、こうして一つの「働く場所」ができると、そこには人々が出勤する風景が現れ、彼ら・彼女たちの乗る自動車が道を走り、小さな「日常」が再び生み出された。その一連の過程を彼は確かに見て、自らも体験したのだった。

ここでは数えきれないほど「ありがとう」と言われてきた

「社員食堂が新聞に載ったり、ニュースに出たりすることはまずありません。だけど、ここでは多くの取材を受けてきました。日本一注目されている食堂を任されているんだ、という意識でやっています」

それに──と彼は言う。

「この前、親会社の社長に言われたんです。『おまえの様子を見ていると、ここに来るためにゼネラルフードで修業をしてきたんだな、って思うよ』と。私もそう感じています。この会社に入ってもう37年が経ちますが、管理者として頭を下げに行くことはあっても、お客さんから『ありがとう』と言われることはほとんどありませんでした。でも、ここでは数えきれないほど『ありがとう』と言われてきました。だから、ここは私にとって誰かが食べるものを美味しく作る努力をし、実際に美味しいと言ってもらえる場所。それって私たちの仕事の原点だなと思うんです」

あと数年で60歳を迎える渋谷は最近、「定年までここにいますよ」と社長に告げた。すると、「なに言ってんだ。延長して65までいればいいよ」と返されたのだと、嬉しそうに話すのだった。