「中間層が増えればいい」という話ではない

【斎藤】そこが難しいところです。はたして、「よき資本主義」が本当に存在するのか、と疑問を感じるんですね。

たとえば、行き過ぎたグローバル化による新自由主義が問題だという考え方がありますよね。新自由主義をやめ、金融資産に課税したり民営化を見直したりして、「もっとマシな資本主義を目指そう」という主張はよく耳にします。日本では、渋沢栄一や松下幸之助の精神に範をとった「日本的資本主義」という話になるし、アメリカでも経済学者のジョセフ・E・スティグリッツが、格差を是正して中間層を厚くする「プログレッシブ・キャピタリズム」を目指そうと言っています。

しかし、かつてのよき資本主義の時代でも、豊かな生活を享受していたのは先進国における一定以上の階層の人々に過ぎません。当時も資本主義は、植民地から富やエネルギー、労働力を非常に暴力的に収奪し続けていました。この構造は『正義の政治経済学』にも書かれていますし、水野さんがよく指摘されているように、資本主義を駆動させる資源は、海賊的なものだったわけです。いわば、先進国の労働者たちは、南から収奪した富を資本家たちと山分けして中産階級になったのです。

抜本的にそれらを見直すとすれば、定常経済に移行するだけでなく、保障や支援も含めてグローバルサウスに富を戻していくことも検討していかなければいけないと思います。だから一国の中で、「新自由主義を批判して中間層が増えればいい」という話ではないんですね。

エリートの意識改革程度で、よき資本主義は実現しない

【古川】人新世の「資本論」』を読んで、斎藤さんと渋沢には共通した考え方があるように私は感じたんです。マルクスと渋沢は、生きた時代が半分ぐらい重なっています。渋沢が『論語と算盤』を出版したのは大正時代、第一次世界大戦の大戦景気でバブルに沸いていた頃です。

当時の日本は渋沢の思いとは裏腹に、西洋式の荒々しい資本主義が浸透し、大資本が産業を牛耳り、資本家と労働者との分断、格差が広がっていました。こうした光景を目の当たりにして渋沢は危機感を抱いたのでしょう。そこで、倫理感を持たなければ、算盤だけではおかしくなるという警鐘を鳴らしたのです。そこが、マルクスが『資本論』を書いて、資本主義の暴力を批判するのと通底しているように思えたんです。

【斎藤】渋沢の時代は、まだ資本主義の勃興期だったので、モラルエコノミー的な議論にも説得力があったかもしれません。ただ、マルクスは渋沢のように、倫理や経営者のマインドで資本主義の力を抑えられるとは考えなかったんですね。資本には個人の意志を超えた力があるというのが、マルクスの物象化論です。

その後の資本主義の暴力を考えれば、マルクスの認識は正しいと思います。経営者や株主、政治家、エリートが意識を少し変えたところで、抜本的な改革は実現しません。みんながSDGsを心がけるぐらいで、よき資本主義に変えられるほど資本主義は甘っちょろいものではないと思います。