業績を急回復させる立役者の思考回路はどんなものなのか。三菱商事からセイコーウオッチに転職した梅本宏彦氏は、リーマンショック、東日本大震災、超円高の3大逆風の中、50年間販売が低迷していた高級腕時計を5年で売上3倍にした。「風がなくても凧をあげる」という言葉を胸に、復活を期した10の戦略メソッドとは――。

※本稿は、梅本宏彦『眠れる獅子を起こす グランドセイコー復活物語』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を再編集したものです。

3大逆風の下、腕時計事業の業績をどん底から回復

私は大学卒業後、総合商社の三菱商事株式会社に入社し、長年国内と海外での鉄鋼取引に携わってきました。

「自分自身を変えよう!」、当時はそんな想いを持って、約28年お世話になった三菱商事を自ら退社しました。その後オーナー経営会社への転職を経て、2003年10月にセイコーウオッチ株式会社へ入社し、国内営業本部特販営業部に担当部長として配属されました。

そして国内・海外両営業本部での営業・マーケティングを担当し、その間に取締役、常務へ昇格、海外と国内の両営業本部長を務めた後、2011年2月にセイコーウオッチでナンバー2の役職である代表取締役専務執行役員(後に代表取締役副社長兼COO)に就任して全社事業執行の最高責任者になりました。

その頃、セイコーウオッチは苦境の中にありました。

世界を襲ったリーマンショックの影響でセイコーウオッチの売上は2009年度には4割近く大幅に下落し、それと同時に営業利益も急角度で減少、腕時計事業の業績は最悪の状況となっていました。

2010年度に入っても大きく回復する戦略がなかなか見出せず、非常に苦しい状況に陥っていました。

ほとんどが生え抜きの社員の中、「外様」が抜擢された

そのような状況下、私は服部真二社長(当時)から、「どん底の業績を回復せよ」という大きな課題を与えられました。

当時、服部時計店の流れを組むセイコーウオッチは社員のほとんどが生え抜きの社員でした。そんな中で服部社長は、あえて外様の私を抜擢したのです。

「セイコーウオッチの腕時計事業を再構築・復活し、外から来た私だからできる新たな視点で事業戦略を考え実行するように」との、服部社長の熱い思いであると私は受けとめました。服部社長にとっては大きな決断であったと思います。

ところが、私が事業執行の最高責任者に就任した翌月2011年3月、東日本大震災が起きました。さらに2008年に1米ドル100円を割った円高が、追い討ちをかけるようにその後も進行し、2011年には年間平均レート79円台という超円高になりました。この状況が2012年まで続いたのです。

東日本大震災は国内のビジネスに大きな影響を与えました。

一方で、当時セイコーウオッチの売上の過半数を占め、営業利益を稼ぐ中心的役割を果たしていた海外ビジネスは、超円高によりさらに大きな打撃を受けることになりました。

私は会社を率いるリーダーとして、「リーマンショック」「東日本大震災」「超円高」という3大逆風の下で船出することになりました。

私の好きな言葉に、日本電産株式会社 代表取締役会長(CEO)の永守重信氏が仰った「風がなくても凧をあげる」があります。

会社にとって逆風の時、すなわち追い風がまったく吹いていない逆境の時であっても、経営者は凧をあげなくてはいけない。風を自ら起こし、走り、凧をあげる。社員たちも全員で走る。

それによりどのような厳しい状況下であっても、会社の業績を伸ばすことができる。そのような意味だと私は理解しています。

私は、今がその時であると思いました。

セイコーウオッチとして最も厳しい状況の今こそ、自らがまず走り、そして社員全員で走り、風を起こし、凧をあげようと。いよいよ6期連続増収、売上2倍、営業利益4倍への助走が始まったのです。